「多額の借金を抱え死の淵をのぞき込んだとき、人のために生き直すと決意した」と話すのは、名古屋のソフトウエア開発企業・フリースタイルの創業者、青野豪淑氏。集まってきた「問題児」たちを立ち直らせようと起業、奮闘し続けてきた同氏に、これまでの取り組みや、人を生かし育てる極意を聞いた。
自殺未遂
走馬灯のように蘇った人生
人生の転機は26歳の秋。多額の借金を抱えた青野氏は「死のう」と考えた。死に場所として選んだのは、子どもの頃に住んでいた懐かしい大阪市内の団地。その最上階、14階の手すりを越えてぶら下がった。その間、何秒だったか、何十秒だったか――それまでの人生が鮮やかに蘇り、脳内を駆け抜けた。臨死体験者が語る「走馬灯」のように。
もらった風船を友達にあげて後悔して泣いたこと、なめたかったあめ玉を小さな子にあげたこと……人のためにしたささいなことが思い出された。だが、その記憶の大半は自分の歩いてきた人生が「クズのど真ん中だった」(青野氏)ことばかり。
ぶら下がりながら涙が出てきた。そして青野氏は、生まれ変わったら人のために尽くそうと思った。そのときハッと気が付いた。26歳、成人してわずか6年。今から始めればいいじゃないか。遅いことなんてない!
手はしびれ始めていたが、必死に手すりをよじ登った。
高校卒業後、食肉店を経て、大手住宅会社の営業職に転職した。ノルマは1日50軒を回ること。だが、自らノルマを1日200軒に上げて精力的に営業。たちまち年収2000万円を超えるトップセールスに上り詰めた。
その後、営業職を極めたいとさまざまな業界のセールスなど転々としながら、成長のための自己投資に「オタク的にはまって」いった。100万円もする教材を買ったり、東京で経営者の懇親会をハシゴしたり、東京から成功者を呼んで話を聞いたり、高額セミナーに参加したり。中には投資話が絡むものもあり、次第に「サラ金」「街金」などから無理な借金を繰り返すようになっていった。
「借金しても成長しているんだから、いつでも取り返せる」と思っていたが、借金が雪だるま式に膨らみ、焦って、再び営業に本腰を入れてもさっぱり結果が出なくなった。
「このお客さんにはライバル社のマンションの方が向いていると思ったら、そちらのモデルルームに案内することもありました。しかし、目的がカネになった途端、うまくいかなくなりました。カネが欲しい、だから買わせよう、売り付けよう、になってしまっていたのです」
営業の姿勢が崩れてしまっていたことに当時は気付かなかった。最終的に借金は4000万円に。厳しい取り立てが続き、友人・知人も離れ、絶望の中で団地の14階へと向かったのだった。
文字通り「死んだ気になって」第2の人生を歩み出した青野氏。
まずは十数社の貸金業者らと直談判し、収入の中から返済していくという合意を取り付け、名古屋へ出た。パソコンの設定や修理をする会社を経営する兄が呼んでくれたのだ。兄の下でスキルを習得しつつ、少しずつ借金を返していった。
そして第2の人生で最も大切なテーマに取り組んだ。自分にできることは、これまで学んできたことや経験を生かし、問題を抱える若者たちを立ち直らせることだ。次第に青野氏の周りにはヤンキーや引きこもりが集うようになっていく。
低所得者でも落ちこぼれでも引きこもりでもヤンキーでも、誰でも「夢はかなう」「成功もする」「幸せになれる」。落ちこぼれの誰もが「なれない」「できない」という「信仰」に絡め取られているが、「なれる」「できる」という自分一人だけの「信仰」を持てばいいんだ──集まってきた若者たちに青野氏は繰り返し話して聞かせた。
だが、青野氏の話を聞き、やる気になって仕事に就いても、半数以上が問題を起こして戻ってきた。無断欠勤して、2日目に上司を殴って、勤務中に寝ていて、ピアスを外して勤務したくないから。そんな若者の一人に「青野さんが社長ならクビにしないですよね」と言われた。そうだ、この子たちが働き続けられるように、自分が教え育てよう。
2006年、28歳の時、資本金3万円で会社を立ち上げた。ヤンキーが営業し、引きこもりがプログラミングするITの下請け業だ。
ヤンキーにはコミュニケーション力がある。良ければ笑うし悪ければ怒る。感情や行動がシンプルで分かりやすいから愛される。クライアントの前で頭を下げ、「教えてください」と言い続けていると、かわいくなって教育し、仕事もくれるようになる。一方、引きこもりはネット関連知識やPC操作に長けている。業績は次第に伸びていった。