人的資本経営を考える上で、人的資本の可視化とは、目的ではなく手段である。
内閣官房の非財務情報可視化研究会が発信した「人的資本可視化指針」(2022年8月)によると、「①人的資本の可視化の前提は、人的資本への投資に係る、経営者自らの明確な認識やビジョンが存在すること。ビジネスモデルや経営戦略の明確化、経営戦略に合致する人材像の特定、そうした人材を獲得・育成する方策の実施、指標・目標の設定などが必要となる。②『人材戦略に関する経営者の議論とコミットメント』、『従業員との対話』、『投資家からのフィードバックを通じた経営戦略・人材戦略の磨き上げ』の一連の循環的な取り組みの一環として可視化に取り組むことが必要」とある。
その期待するところは、人的資本の可視化において企業や経営者に経営層・中核人材に関する方針、人材育成方針、人的資本に関する社内環境整備方針などについて、「自社が直面する重要なリスクと機会、長期的な業績や競争力と関連付けながら、目指すべき姿やモニタリングすべき指標を検討し、取締役・経営層レベルで密な議論を行った上で、自ら明瞭かつロジカルに説明すること」である。
つまり、経営者が主体的に人材育成・人材活用に取り組み、人的資本経営に資する明示された人的資本KPI(重要業績評価指標)の現状との乖離を把握し、経営層の指し示す方向性に社員が共感し、人と共に企業が成長し、価値を生み出していけるということだ。
以上を踏まえ、HR施策として各社が目指すべき方向性は、一言で言うと「人事部門(機能)の高度化」である。
これまでの、ルーティン化された労務管理や給与計算などの「オペレーション人事」や評価制度、処遇制度の設計・運用などの「インフラ人事」が重要であることに変わりはない。
しかし、これからの人事は、経営戦略・事業戦略を踏まえて組織、人材を機能させる攻めの人事、経営と対等の人事、すなわち「戦略人事」へとシフトしていかねばならない。HR総研の調査※1においても、現在の人事の役割の必要性において、「戦略人事」は今後増加し、「オペレーション・インフラ人事」は減少する結果となっている。
戦略人事へのシフトにおいては、HR領域の機能ごとに施策を高度化させる必要がある。それぞれの機能とポイントは次の通りである。
❶採用
「直接雇用」という思い込みを捨てる
❷配置
人事データの蓄積と根拠に基づいた配置、早期離職を防ぐオンボーディング※2
❸育成
教育体系の整備とオンライン研修体制の確立
❹評価
新しい評価の仕組みの検討(1on1、ノーレイティング※3など)
❺処遇
給与・賞与にとらわれない「トータルリワード」の追求
❻人事制度
職能資格制度からの脱却
これらと併せ、運用において、PA(ピープルアナリティクス:人材分析)を活用することでより効果的となる。データの可視化により、再現性のある指標をコントロールするので、人的資本KPIとして展開することも期待できる。PAに活用されるデータとして、次のようなものが挙げられる。
❶オペレーションデータ
人事上のオペレーション(採用・配置・育成・評価など)
❷エモーションデータ
社員満足度データ、エンゲージメントデータなど
❸パーソナルデータ
社員の性格特性、能力特性など
❹アクティビティデータ
活動のログデータ、メールデータ、勤怠データなど
各社のHRテックの活用状況によるが、戦略人事の機能別に人的資本KPIを選定し、ダッシュボード化することで経営の意思決定を高度化することにもつながっていく。
ここで、筆者がコンサルティングの現場で実際に指標化することのある人的資本KPIを紹介する。
そもそもISO30414を意識したものではないため、区分ごとに読み替えて解釈する必要がある。【図表3】に示す区分とISO30414の11領域との関係は、採用関連は「採用・異動・離職」および「コスト」、人材育成および幹部育成は「スキルと能力」、人材活用は「ダイバーシティー」、労働生産性は「生産性」、組織運営は「コスト」および「組織文化」など、おおむね対応することができる。
【図表3】人的資本KPIの例
❶採用に関するKPI
採用業務の担当者は、月間の応募数や採用人数を追うことに注力するあまり、入社後のミスマッチを引き起こすケースがある。本来、採用者には入社後に現場で成長・活躍してもらうことが目的であるため、採用をゴールとせず、活躍・定着へとつなげることが重要である。
❷人材育成に関するKPI
人材育成は企業の将来を左右する重要な人事機能だが、その効果を客観的に計測しにくいことなどから、研修などを「行うこと」が目的やゴールになってしまうケースがある。しかし、本来はそうした育成の実施状況ではなく、プロセスとプロセスごとの深度を測ることが求められる。
❸労働生産性に関するKPI
労働生産性とは、社員1人当たりの成果(売上高)を示す。なお、社員には総務や経理などの間接部門の人員も含まれる。労働生産性を評価するには、自社の生産量とコストを数値化するとともに、同業他社との比較などから問題点をあぶり出すことが必要である。直間比率においては、真の直間比率を算出すべく、直接人員が抱える間接業務まで数値化し、コントロールする場合もある。
❹組織運営に関するKPI
組織のコンディションが良いのか、悪いのかを客観的に評価するのは難しく、組織ごとの勤務環境をKPIにしている企業もある。残業時間数や有給休暇の消化率が標準モデルよりかなり多い場合は、その部署内で人材のミスマッチが生じている可能性を考える必要がある。エンゲージメントスコア(アセスメント)などの定量化される数値を活用してさまざまな現象や問題の真因を探る取り組みをしている企業もある。
改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおける人的資本情報に関する記載事項も押さえる必要がある。
❶企業の中核人材における多様性の確保に向けて、管理職における多様性の確保(女性・外国人・中途採用者の登用)についての考え方と測定可能な自主目標を設定すべき
❷中長期的な企業価値の向上に向けた人材戦略の重要性に鑑み、多様性の確保に向けた人材育成方針・社内環境整備方針をその実施状況と併せて開示すべき
❸サステナビリティを巡る課題への取組として、人的資本等への投資等について、自社の経営戦略・経営課題との整合性を意識しつつ分かりやすく具体的に情報を開示・提供すべき
これらは、上場企業ですでに対応すべき項目となっており、中堅・中小企業においても将来を見据えて準備すべき事項として捉える必要がある。
これまで述べてきたことは、海外や国内の上場企業などですでに動き出している流れであるが、あくまで考え方であって、全てではない。
ただ、この機会にHR領域における大切な取り組みの方向性として、人的資本情報の開示という潮流を前向きに捉え、意思決定の高度化・迅速化など、企業経営そのものに生かしていただきたい。
※1…HR総研「人事の課題とキャリアに関するアンケート調査」(2020年7月)
※2…新しく会社・組織に加わった人材にいち早く職場に慣れてもらい、組織への定着・戦力化を促進する取り組み
※3…人事評価における社員のランク付け(レイティング)を廃止し、数値や記号を使わないで評価する方法