ナカリ
代表取締役社長 中村 信一郎氏
1923年、日本屈指の米どころ宮城県加美町(旧・中新田町)で「中利商店」として創業したナカリは、地元産の良質な米を全国に届けることで、地域とともに発展してきた。米の年間取扱量は約5万トン。そのうち、ブレンド米の一部や味噌・米菓・日本酒・焼酎・ビールなどの原料に使われる加工用米(特定米穀)の年間取扱量は約3万トンと日本一を誇る。
「加工用米は、主食用米の規格から外れた小粒の網下米や未成熟米、いわゆる『くず米』です。戦後、人々の生活が豊かになり、おいしさを追求する中で捨てられるようになった『くず米』ですが、2代目社長の良一と妻のあきゑは、そこに価値を見出し、主力商材として取り扱うようになりました。1958年には他社に先駆けてくず米の精米機械を導入し、翌59年に工場を建設。折しも高度経済成長に伴って各地の米菓メーカーなどが主食用米より低コストの加工用精白米を原料として使うようになり、当社はくず米の加工販売事業を軌道に乗せることができたのです」
ナカリの4代目・代表取締役社長の中村信一郎氏は、祖父母の先見の明に敬意を込めて、同社が加工用米の取り扱いでニッチトップとなった原点をそう振り返る。
「『くず米』に当たる米は収穫量全体のわずか5%。田んぼ1反(約300坪)につき25kg程度しか発生しません。また、中途半端に発生するため、生産者がいち早く処分するので、このくず米を主力商材とするには、処分前に広範囲から早く、そして少しでも多く集荷し、自社の倉庫に保管する必要があります。そこで2代目は、どんなに事業が好調でも私生活では決して贅沢(ぜいたく)をせず、質素倹約して事業用の土地を次々と取得。米の集荷やくず米の販売で得た利益は、自社の未来を支える工場・設備・倉庫などの増強に大胆に投資し、揺るぎない基盤を築きました。会社第一の堅実経営と、いざという時の行動力、投資力、チャレンジ精神が、ナカリの経営の礎となっています」(中村氏)
ナカリの本社社屋
1975年には、競合他社が大きな利益を見込んでレジャー産業や外食産業に手を出す中、身の丈に合った規模の不動産賃貸業を開始。また、1977年からは政府の要請を受けて、備蓄米を保管する倉庫の貸し出し事業をスタートした。
さらに、3代目社長・光良氏(現会長)の代にかけては、主食用米の小売事業を担うタカラ米穀、不動産賃貸業を行うナカリエステート、独自のスチーム技術で炊飯した米を販売するボン・リー宮城など、事業種別にグループ会社を設立し、分社経営を本格化。事業の柱をいくつも立てておくことで、国の政策や天候に激しく左右されるハイリスクな米穀事業の不調をグループ全体でカバーできる体制を整えた。
同社は現在、本社と近隣4カ所(計1万5500坪の敷地)に9300坪もの社屋・工場・倉庫を有しており、自社所有・自社保管米穀は約3万トンと、ストック力でも日本一を誇る。2011年の東日本大震災の際には、物流が寸断されて食料の入手が困難になる中、自社倉庫に保管していた大量の白米や灯油・軽油を提供し、何千人もの地域住民の心に安心の灯を届けた。
「2024年は『令和の米騒動』が話題となりましたが、『平成の米騒動』と呼ばれる1993年の大冷害は、東北地方で8月に氷が張る地域があったほどの冷夏で、各地の水田で米が収穫できず、外国産米を緊急輸入せざるを得ないほどのパニックに陥ったこともありました。食糧の安全保障は、国防、防災、エネルギーなどに比べて対策が後回しになっているのが現状ですが、100年先、200年先も日本の主食であるお米の文化を守れるように、オールライスメーカー®としての務めを果たしていく決意です」(中村氏)
ナカリをニッチトップたらしめているもう1つの要因は、選別機のトップメーカー安西製作所(千葉県)と共同開発した日本に1台しかない異物除去装置の導入や、それらを使いこなす熟練社員の知識・技術力である。
「主力商材の『くず米』には、米の5倍近い量の土砂、石、ガラス片、プラスチック片などが混入しています。私たちが『くず米』を製品として取り扱うことができるのは、極めて高い精度で異物を除去できる機械の技術開発があったからこそ。メーカーが開発した試作品の1号機の導入時から何万時間にも及ぶ使用データを提供し、お客さまのクレームや要望を1つずつ共有しながら、安西製作所とともに進化・発展してきた歴史があります」(中村氏)
中村氏によると、2018年に15億円を投じて建設した主食米用の新工場にも安西製作所と共同開発した色彩選別機、ガラス選別機、異物選別機を採用しているという。同工場では2022年に精米HACCAP(ハサップ)の認証を取得。厳密な衛生管理のもと、「異物管理日本一」への挑戦を続けている。
精米HACCP認定を取得した工場と設備