山形大学 学術研究院 産学連携教授 岩本 隆(いわもと たかし)氏東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ㈱、日本ルーセント・テクノロジー㈱、ノキア・ジャパン㈱、㈱ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2018年9月より山形大学学術研究院産学連携教授。2020年10月、日本初のISO30414リードコンサルタント/アセッサー認証取得。
コーポレートガバナンス・コード改訂に伴い、上場企業の最重要課題として浮上した「人的資本情報の開示」。この転換点を飛躍台とするため、いま打つべき手とは――。山形大学学術研究院の産学連携教授・岩本隆氏とタナベコンサルティング執行役員の川島克也がディスカッションした。
「人的資本経営」が問われる背景
川島 「人的資本経営」というキーワードが近年、注目を集めていますが、その定義や本質を十分に理解し、具体的な施策に落とし込めている企業はまだ少ないと思います。なぜ、これほど注目されているのでしょうか。
岩本 まず、企業の人事戦略が国の産業政策として捉え直され、その優先順位が高まってきたという背景があります。
2017年3月に閣議決定した「働き方改革実行計画」をきっかけに、残業を減らして有給休暇の取得率を上げるからには、生産性を高める産業政策も両輪として実施するべきという議論が高まりました。そして、ICTやAIを駆使して時間・空間にとらわれない働き方を目指す「働き方改革2.0」が打ち出されました。
私自身も「HRテクノロジー」を大学発で提唱し、最先端技術で人事・労務の課題を解決するためのアイデアを競い合う「HR-Solution Contest―働き方改革×テクノロジー―」(経済産業省・IoT推進ラボ主催)の審査委員長を2017年に務めるなど、経済産業省の人材政策室(現人材政策課)と連携して、さまざまな仕掛けを試みてきました。
一方、優秀な人材の外資企業への流出に歯止めがかからない現状に対する危機感も広がり、国の競争力を強化する重要なファクターとして、財務諸表には数値化されていない「人材」に注目が集まるようになったのです。
川島 知的資本投資銀行™会社であるオーシャントモのリポートによると、S&P500の企業価値に占める無形資産の割合が年々増加し、2020年には90%に達しています(【図表1】)。このデータには大変驚きました。
【図表1】S&P500の企業価値に占める無形資産の割合
出所:オーシャントモHPよりタナベコンサルティング作成
岩本 人的資本とは、人材を「資本」、つまり利益を生み出す元手と見なす考え方です。したがって、人材もROI(投資利益率:Return On Investment)で捉えるべき対象であるとされます。
欧米における政策議論の活発化を受けて、日本でも2020年1月の「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会」を皮切りに議論がスタート。ファイナンスの第一人者である伊藤邦雄氏(一橋大学CFO教育研究センター長)を座長に招き、検討が重ねられました。
川島 同年9月に最終報告書として「伊藤レポート」が公開され、大きな話題となりましたね。
岩本 さらに「人的資本経営の実現に向けた検討会」を経て、2022年5月に「人材版伊藤レポート2.0」がまとめられました。同年8月には「人的資本経営コンソーシアム」が発足し、先進事例の共有や情報交換が行われています。
「ものづくり」の発想から脱却せよ
川島 欧米の勢いに比べると、日本では後に続く企業がまだ少ない印象です。人的資本経営の推進が遅れている原因は、どのような点にあるとお考えですか。
岩本 いわゆる「失われた30年」そのものだと思います。日本は1980年代まで、ものづくりによって経済成長してきました。そのため、同じ製品を高い品質で作るのは極めて得意です。半面、無形のものを資産にして売るビジネスは非常に苦手と言えるでしょう。
川島 「サービスは無料」という認識が根強い日本では、建物や設備などには投資できても、目に見えないものに投資して利益を生み出すというイメージを描きにくいのかもしれません。
岩本 サービス提供型のソフトウエアビジネスは、従来のハードウエア売り切り型ビジネスよりもレバレッジ効果が非常に高く、競争力を強化できる可能性が大いにあります。まずは経営トップが「ものづくり」中心の発想から脱却しないと、人的資本経営への移行は容易ではないと思います。
タナベコンサルティング 執行役員 HR東京本部 本部長 川島 克也(かわしま かつや)経営全般からマーケティング戦略構築、企業の独自性を生かした人事戦略の構築など、幅広いコンサルティング分野で活躍中。年商1000億円超メーカーのM&Aに際し、グループ会社人事制度の統合支援と幹部教育を実施し、グループ理念とミッションを軸としたグループ戦略の推進とマネジメントレベルの向上を実現するなど、企業の競争力向上に向けた戦略構築と、強みを生かす人事戦略の連携により、数多くの優良企業の成長を実現している。
特性や志向を尊重するためのデータ技術
川島 岩本先生が考える「人的資本経営」の定義は、どのようなものでしょうか。
岩本 広く言えば「企業は人なり」の実行です。「企業は人なり」というフレーズは、「従業員の雇用を守る」とか「福利厚生が手厚い」というニュアンスで解釈されがちですが、人的資本経営においては「一人一人を活躍させる」という意味です。
それ自体は新しい話ではなく、深刻な人手不足だった戦後復興期にも語られてきたことなのですが、昔と今で決定的に違うのは「データ技術」の有無です。一人一人を活躍させるには、個々の特性をよく見なければなりません。全てのマネジャーにそのスキルがあれば良いのですが、従業員が何千人、何万人といる大企業にとっては現実的ではない。人的資本を経営戦略の中核に据えるにはデータ化が必須なのです。
川島 感覚的な人事ではなく、測定可能な指標を用いて定量化するのですね。バイアスをかけずフラットに見ることができれば、若手も含めて活躍の場が広がりそうです。取り組むべき施策としては、HRデータの集約やHRDXの仕組みづくり、タレントマネジメントといったところでしょうか。
岩本 それらも重要な施策ですが、そうした仕組みをうまく機能させるために、まずは人事制度を根本から見直す必要があります。例えば、年功序列と定年退職は、人的資本経営の国際基準に照らすと「差別」と見なされます。日本では、この2制度が足かせとなり、労働組合との折衝に何年もかかっている企業が多い印象です。
川島 これからの人事制度は、やはり「ジョブ型」が主流になると思われますか。
岩本 給料や職位を右肩上がりに上げていくだけが人事ではないということです。中には実際に「上司が自分より年下でもいっこうに構わない。自分はずっとプレーヤーでいたい」という価値観の方々もいます。
川島 選択の自由を保証するプラットフォームは大切ですね。ひいては、社員一人一人にも自律したキャリア観が求められることになります。
後継者育成計画の開示は喫緊の課題
川島 「人材版ISO」と呼ばれるISO30414では、【図表2】のように「ダイバーシティー」「生産性」「採用、異動、離職」など11領域で全58のメトリック(人的資本測定基準)が示されています。どの領域にどう投資するかは各社各様かと思いますが、重点的に開示すべき指標はありますか。
【図表2】人的資本の11領域における58のメトリック(人的資本測定基準)
出所:ISO 30414「Human resource management - Guidelines for internal and external human capital reporting」より岩本氏作成
岩本 「リーダーシップ」と「後継者計画」ですね。グーグル、マイクロソフト、アップルなどの海外企業は、カリスマ経営者が退いた後もしっかりと経営が引き継がれています。翻って、後継者問題に直面している日本企業が多いのは、こうした指標が曖昧であったことの象徴と言えるでしょう。持続的に成長できるか、継続的に投資できる対象か。根拠ある後継者計画を示さないと、投資家に不安を与えてしまいます。
川島 リーダーシップのメトリックとは、具体的にどのようなものですか。
岩本 「リーダーシップに対する信用」「管理する従業員数」「リーダーシップ研修に参加した従業員の比率」の3つです。開示されている各社のリポートを見ると、この3つを自社なりにかみ砕いて、リーダーシップに関する記述にかなりのボリュームを割いています。
例えば、銀行として世界で初めてISO30414認証を取得したドイツ銀行は、自社なりのリーダーシップ観を詳述。育成プログラムはレベル別・分野別に内容を示し、受講率も記載しています。
また、国内では三井化学が、サステナビリティ活動の一環として人材マネジメントにおける「キータレントマネジメントと戦略重要ポジション後継者計画」を発表し、後継者準備率(戦略重要ポジションに対する後継者候補数÷戦略ポジション数」を開示しています(【図表3】)。2021年度の後継者準備率は233%で、1つの戦略ポジションにつき2名以上の後継者候補がいるという意味です。
【図表3】三井化学の戦略重要ポジション後継者準備率
出所:三井化学コーポレートサイトよりタナベコンサルティング作成
川島 人事だけの課題ではなく、経営課題として人的資本を扱っていることがよく分かります。今後は多くの企業のトップミーティングでも「人材」「HRDX」がアジェンダとして加わることになるでしょう。
岩本 取締役会の課題として人材戦略を取り扱う会社は着実に増えていますね。2022年3月には、日立製作所が旗振り役となって「非財務情報の開示指針研究会」(経済産業省)が発足しました。100を超える事業会社がワーキンググループをつくり、議論を重ねています。いずれにしても、まずはデータをそろえて経営会議のテーブルに載せることが第一歩となります。具体的なKPI(重要業績評価指標)を設定し、モニタリングしていける体制づくりが必要です。
川島 ISO30414認証の取得には、どのようなデータが必要ですか。
岩本 大手企業の場合、外部に開示すべきメトリックは23で、内部へは58を全てデータ化して、過去3年分のデータをそろえなければなりません。中小企業は、外部に10、内部には32の開示データを整える必要があります(【図表2】)。認証機関は、データだけではなく経営トップや事業部長のインタビューなども参照しています。
川島 持続的成長の「手段」であるはずの情報開示や認証取得自体が「目的」になってしまっては本末転倒です。業務との乖離を防ぐ方法はありますか。
岩本 情報開示は、社内で活用する人材マネジメントデータの一部を資本市場や労働市場に向けて戦略的に開示するというもので、それも重要なことではありますが、より重要なのは社内での人的資本報告です。全ての従業員が自社の人材マネジメントの在り方に納得し、自信を持てることが根本的に重要となります。
川島 情報開示や認証取得を、企業価値を高める飛躍台としていきたいところですね。
今こそ「企業は人なり」の再定義を
川島 事業部と人事部のコミュニケーションの在り方についてはいかがでしょうか。
岩本 これからの人事部には、人間を深く理解し、事業部長にアドバイスできるくらいの資質が求められると思います。事業部長とともに「誰をどのように育てていこうか」と戦略的に話し合うHRBP(HRビジネスパートナー)であるCHRO(最高人事責任者)の存在が重要です。
HRDXを進めている先進企業では、ブラックボックス化していた人事部のデータを全事業部のリーダーが閲覧できるようにしました。現在は事業部が中心となって人事関連業務を行い、人事部はプラットフォームを俯瞰的に支える役割を担っています。
川島 事業部と人事部が知見を共有して、インタラクティブ(双方向)に「人的資本」を活用していく。まさしく、各社の采配が問われます。
岩本 これからの「企業は人なり」とは、自社にとって具体的にどういうことなのか。ビジョンの実現に向け、その定義をゼロベースで考えていくことが大切だと思います。
川島 本日は、貴重なお話をありがとうございました。