「戦略人事」とは、米ミシガン大学の教授であるデイビッド・ウルリッチ氏が提唱した考え方で、「人的資源を適切にマネジメントし、事業戦略を達成する人事施策」を指す。
似た言葉に「人事戦略」があるが、1番の違いは「業績にコミットしているかどうか」という点である。人事戦略は失敗しても業績への直接的な影響は少ないが、戦略人事の導入による失敗は業績目標未達成の直接的な原因となり得る。
働き方や消費者の価値観が短い期間に大きく変わる現代において、持続可能な経営戦略を実現するために、従来の人事戦略から戦略人事へのシフトが求められている。
だが、多くの企業は、いまだ戦略人事機能を備えることができていない。「インフラ人事」(既存組織を成り立たせるための制度や仕組みの整備・運用)や、「ルーチン人事」(定型的な人事業務)で手一杯という実態だ。
日本の人事部『人事白書2022』によると、「戦略人事は重要である」と認識している企業は全体の8割超だったものの、「戦略人事が機能している」と答えた企業は全体の3割以下だった。また、取り組んでいない人事パーソンに理由を聞いたところ、「何をすればいいのかがわからない」(37.0%)が最多。次いで、「経営が戦略人事を求めていない」(35.2%)と、重要性があることは知りつつも、具体的にどうすればよいのか悩む姿が浮き彫りになっている。(【図表】)
【図表】戦略人事に取り組んでいない理由
その一方で、「取り組みがうまく機能していない」と悩む経営者も少なくない。筆者が日々のコンサルティングの現場で体感することである。
戦略人事を進めるに当たり、何から始めていくべきか解説する。まずは、自社の業績達成を支える「人事KPI」の設計が重要である。KPIとは、組織の目標を達成するための重要な業績評価指標である。これに対し、人事KPIとは「人材・人事に関するマネジメント指標」を指す。
経営戦略を推進していくために不可欠な人材アジェンダを設定し、定量指標である人事KPIを設けることで、在るべき姿とのギャップが見えてくる。そこで初めて、人材に関する施策の検討、人材戦略の計画立案へとステップを進めることができる。
「戦略人事に取り組まなければ…」と悲観的に方法を考えるのではなく、「自社は何を重要指標として見るのか」、まずはそこから検討を始めていただきたい。
検討を進める上で、2018年に国際標準化機構(ISO)が発表した、ISO30414(人的資本に関する情報開示のガイドライン)を参考にしていただきたい。上場企業においては、現段階でISO30414の認証取得義務はないものの、2021年に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおいて、非財務情報の開示が求められているため、戦略人事に関する取り組みを進めている企業は多い。
一方、非上場企業においては、上場企業ほど重要性の認識が高まっているとは言えない。しかしながら、現状の人的資本について整理・評価し、人事KPIを設計することが戦略人事を機能させる第一歩になる。
ISO30414には、社外へ開示すべき、また、社内で議論すべき指標として定められている、人材に関する11領域・58メトリックがある(本誌29ページ参照)。こちらも参考に、自社が掲げるべき人事KPIの設計をお勧めする。
最後に、経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)を参考に、大阪市の総合建設業A社のコンサルティング事例を交えながら、経営陣が果たすべき役割・アクションを3つ提言したい。
❶CHRO(Chief Human Resource Officer:最高人事責任者)の任命
戦略人事を推進する上で、まずは人事KPIの設計が重要であることを前述した。設計した人事KPIを推進・モニタリングするためには、経営陣にその機能を持たせる必要がある。
結果を報告するだけの人事担当者ではなく、自社の事業戦略を理解した上で、戦略人事を策定できるCHROの選任が不可欠である。CHROは、必ずしも人事部門から選ばなくてもよい。
A社は、中途採用で経営企画部に配属した従業員B氏をCHROに任命した。B氏は現場での施行管理に関する知識や経験は少なかったものの、自社事業の強み・弱みを俯瞰して捉えるスキルを有していたため、客観的視点から足りない部分を提言できた。
具体的には、施工管理者のためのスキルマップを策定し、次席クラスのスキル習得度が低いことを分析したり、同業他社との比較を徹底して行い、自社の魅力を発信したりした。結果として、A社は知名度は高くないものの、毎年5名前後の大卒社員の採用に成功している。
CHROが行ったのは、「事業戦略を理解し、それを力強く推進するために自社に足らないことは何か」を徹底的に分析することであった。
❷人事KPIの設定
A社では、❶の取り組みを進める中で、大きく3つの人事KPIを設定した。1つ目は、「技術力を見える化し、育成サイクルを早めるためのスキルマップの充足度伸長率」。2つ目は、「スキルマップ充足度を高めるための企業内大学(アカデミー)の受講率」。3つ目は、「全社的な生産性を上げ、残業時間を抑制するためのシステム利用率」である。
A社は、初めからこれらを明確に定めたわけではなかったが、1つの目安として指標化し、施策実行・モニタリング・改善を繰り返したことが成果につながった。
❸ステークホルダーへの発信
A社の取り組みを進める中で最も効果が出た要因として、「社内外に情報を開示し続けた」ことが挙げられる。初めはステークホルダーから反発があったものの、取り組みの目的と人事KPIを発信し続けることにより、少しずつ理解を得られるようになった。
松下幸之助氏の至言に「事業は人なり」とあるように、結局のところ物を作ったり、売ったりするのは人材である。予測困難な時代環境において、「人こそ最大の資産である」という認識を強め、戦略人事へとシフトチェンジしていただきたい。