
2000年代以前、パソコンは今ほど普及しておらず、スマートフォンはまだ存在すらしていなかった。人々の情報ソースは主にテレビで、それに付随するメディアとして新聞・雑誌が存在するという、いわゆるアナログの時代であった。また、情報の発信元はほぼ国内に限られ、海外の情報はテレビや新聞から断片的に伝わってくるだけだった。 この時代の消費の特徴は、限られたメディアが発信する情報を発端にした大ブームが起こることであった。特に、食やモノの消費においては、同じ商品を多くの人が求めて大行列を起こすようなブームが生じていた。この時代の消費は「嗜好の画一性」が強かったのである。 かたや、現代は1人1台以上のスマホを保有し、インターネットで世界中の情報を容易に得ることができる。ネット通販でワンクリック購入・翌日配送される購買インフラがあり、SNSで消費者から情報発信されることによる商品・サービスの評価(口コミ・バズる)が当たり前になっている。いわゆる「DtoC(Direct to Consumer)の時代」と言える。 それによりもたらされたのは「嗜好の多様化」である。情報ソースが限られていた時代のように画一的な消費ではなく、情報ネットワーク・インフラから企業・消費者が多くの情報を相互発信することにより、同時多発的にさまざまな消費嗜好トレンドが生じている。 一見ニッチでも、その嗜好を求める消費者に同時に届けることで、ある程度のマーケットを確立することができるのである。情報網の発達がもたらした社会の変容と言えるだろう。 社会にデジタルデバイスとSNSが浸透し、マーケットが成熟した今、顧客は品質や性能、価格以上の付加価値として、感動や共感といった「体験」を求めるようになっている。消費者が企業の情報発信者とダイレクトにつながることができるようになった結果、品質・性能・価格だけでなく、さらなる付加価値を求めるようになってきたのである。 音楽配信サービスやカーシェアリングといったサブスクリプション型ビジネスモデルの台頭は、CDアルバムや自動車といった「モノ」よりも、音楽を聴くことや自動車に乗ることで得られる「体験」を、顧客が重視している傾向の表れと言える。 このような時代においては、モノではなく良質な体験を提供することが、企業の生き残りと成長の鍵を握っている。顧客は商品・サービスを、どのような目的で、どう利用したいのか。顧客が求める体験を深く理解して支援し、継続的な利用を促す「カスタマーサクセス」の考え方が、ますます重要性を増していく。 これまでも顧客満足度(CS)調査などを利用して顧客のロイヤルティーを高める施策はあったが、「S(満足度)」ではなく「X(体験)」という切り口で、商品・サービスの価値が見直されている。いわゆる「CX(カスタマーエクスペリエンス:顧客体験価値)」の提供が、経営戦略上の重要な要素となったのである。
CXは、ある製品・サービスについて、購入前から購入後、廃棄に至るまでの全プロセスで顧客が感じる体験価値である(製品・サービスの利用体験価値は「UX(ユーザーエクスペリエンス)」と呼ばれる)。 CXの対象は「製品・サービス」と「マーケティングシステム」に大別できる。製品・サービスの体験価値を高める目的は、その付加価値の向上である。顧客に提供する製品・サービスを変化させる観点としては、「どれだけその付加価値を高めることになるか」を見極めていただきたい。言い換えると、その変化によってどれだけ業績向上の期待値が得られるかということである。 他方、マーケティングシステムの体験価値を高める目的は、LTV(顧客生涯価値)を最大化することにある。顧客に提供するマーケティングシステムを変化させる観点としては、「顧客から生涯にわたって得られる利益をどれだけ最大化できるか」。言い換えると、その顧客のリピート率を高めることができるかということである。 CXの構成要素は、【図表1】のように分解することができる。 【図表1】CX(顧客体験価値)の構成要素
出所:タナベ経営作成 この考え方から言えることは、CX=顧客価値単価×ロイヤルカスタマー数×リピート率で表されること。そしてCXの最大化は、単に製品・サービスに対する好感を得るという定性的な改善にとどまらず、各項目の向上により改革的な業績インパクトをもたらすということである。
CXの構成要素を最大化するためのポイントについて考察したい。共通して言えるのは、従来から提供してきた製品・サービスの付加価値を、CXの視点により抜本的に見直し・改革していくことで、製品・サービスの付加価値向上(利益の創出)を実現でき、それが拡大・再投資の原資を生み出すことで持続的な事業競争優位性を向上・維持し続けられるということである。この考え方に基づき、CXの構成要素を1つずつ見直していただきたい。 ❶顧客価値単価 CXの構成要素で最も重要なKPI(重要業績評価指標)は、顧客価値単価、つまり、いかにその製品・サービスの「単価」を高くするかである。言い換えると、高い単価であっても、顧客に納得して購入してもらうにはどうすべきかということだ。 そのためには、自社独自のバリューチェーンを構築し、製品・サービスの付加価値を上げることが重要である。また、単に付加価値が高いだけではなく、顧客の求める品質に対するコストパフォーマンスを高めるという観点も重要である。 ❷ロイヤルカスタマー数 単なる顧客数ではなく、ロイヤルカスタマー数、つまり自社や製品・サービスに対してエンゲージメントが高く、高頻度・高単価で購入する「上得意客数」をいかに増やすかが重要である。このKPIを増やすには、自社や製品・サービスのUXを高めることで、ブランド認知度やロイヤルティー(愛着心)を向上させていくことが必要である。 ❸リピート率 リピート率は、自社の製品・サービスを一度利用した顧客が、どれくらいの頻度で再利用するかという指標である。一般的に、新規顧客を獲得するコストは既存顧客の再利用を獲得するコストの約5倍と言われる。経営資源を最大限に活用するためにも、この指標は重要である。 このKPIを高めるためには、自社が現在提供している製品・サービスの「質」を高めることにより、顧客の期待値に対する満足度を高める必要がある。また、CRM(顧客情報管理)を徹底し、リピート利用の可能性がある顧客に対して適切な情報を提供することも重要だ。最近は、カスタマーサクセスという考え方の下、顧客が自社の製品・サービスを利用して望ましい結果を手にするための情報提供を積極的に行い、製品・サービスの再利用を促すことも、このKPIを高めるためには必要である。
CX戦略を考えることは、言い換えれば「顧客価値の再定義を行う」ことである。自社をCX視点で分析し、明らかになった体験価値の課題を、目指すべき顧客価値として再定義し、解決を図るべきである。 この際に重要となるのが、自社の不変の価値判断基準である経営理念やMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)である。経営理念・MVVを基軸に置き、外部環境要因を踏まえ、自社の目指すべき顧客価値を再定義するのである。 これを行った上で、現状分析から明確になったカスタマージャーニーマップを再設計し、新たな顧客価値を提供する顧客とのタッチポイントと価値提供の方法を設計する。このCX戦略を定めることにより、目指すべきCXを実現するための、現状の自社における事業戦略面・経営戦略面での課題が明確になるのである。(【図表2】) 【図表2】付加価値・顧客LTV最大化の流れ
出所:タナベ経営作成 設計した体験価値戦略を、具体的なアクションプランに落とし込む段階が次の段階となる。検討すべきテーマ例は【図表3】の通りである。 【図表3】アクションプランに落とし込む際の戦略検討テーマと主な検討プロセス
出所:タナベ経営作成 ここで重要なプロセスは、経営戦略領域における「①体験価値・顧客評価分析に基づく意思決定構造設計」である。 体験価値基準で経営が行えていない企業には、体験価値の評価に基づいて状況判断・改善の意思決定を行うPDCAサイクルを回すプロセスが存在しないことが多い。この機能を実装した上でCX戦略を実施することにより、体験価値は日々上昇し、目指すべき体験価値の実現を行うことができるのである。 また、昨今の情報・メディアの多様化により、「コミュニケーション戦略」も重要な要素になっている。自社の体験価値実現活動を対外的に適切に伝えていくアウターコミュニケーション戦略と、体験価値実現のベクトルを社内で統一していくインナーコミュニケーション戦略は、現代において欠かせない考え方であり、自社の状況・目指すべき体験価値に応じて、適切な経営機能を実装していくべきである。 昨今の世界的な情勢の変化で、人件費・原料費・物流費高騰などによるコスト増が大きな経営負荷として降りかかっている。このような環境において、外部要因であるコスト高の影響を吸収しつつ、利益を出していくためには、やはり製品・サービスの付加価値や顧客LTVを最大化していかなければならない。つまり、今こそCX戦略が求められていると言っても過言ではない。 本稿で述べたCX戦略の考え方に基づき、CXの考え方を会社内に定着させることで、新たな体験価値提供を実現していただきたい。
