デフレからインフレへと経済環境が大きく転換する中、現預金を厚く保有するだけでは、貨幣価値の目減りにより企業価値の維持が難しくなりつつある。企業は、財務健全性を確保しながら、成長投資・生産性向上・資本効率改善へと資本配分を転換することが求められる。こうした転換が必要とされる背景には、長期にわたるデフレ環境の中で、日本企業に「守り」を重視する経営が定着してきた経緯がある。
本稿では、まずその背景を整理した上で、成長投資を「戦略性・採算性・安全性」の3つの観点から判断する投資基準の設定手法について解説する。
デフレ時代の経営戦略
1990年前後のバブル崩壊で地価・株価が急落し、企業の債務問題と金融不安が深刻化した。消費や投資が冷え込んだ日本経済は長期的なデフレに陥り、その後30年間の停滞は「失われた30年」と呼ばれた。
このデフレの中、日本企業の事業戦略は攻めよりも守りを優先することが求められ、次の経営戦略の考え方が定着し、それが今でもスタンダードとなっている。
❶ 現預金の積み増し
不透明な経済状況に対する備え、銀行融資が細るリスクへの備え
❷ コスト削減
固定費抑制、人件費抑制、調達コストの引き下げ
❸ 有利子負債削減
貸借対照表(バランスシート)をなるべく軽くし、有事の際に備える
❹ 価格競争力
安売りに耐えられるだけのコスト構造をビジネスモデルのベースとする
❺ リスク回避
投資は慎重に実施し、確実性が見込めない場合は実行しない
現在は、物価上昇と高い賃上げ率が併存する「インフレを伴う緩やかな回復・移行期」に入りつつあり、企業はデフレ下で合理的だった守りの経営から、インフレ下で企業価値を高める経営へ転換する必要がある。
日本国内の上場企業が保有する現預金は約110兆円規模に達しており、総資産に対する現預金比率は日本が10%超であるのに対し、米国は6%前後、欧州は7%前後にとどまる。これは、日本企業が不確実性への備えとして、手厚いキャッシュを保有してきたことを示している。ただし、現預金の保有自体が否定されるわけではない。インフレやグローバル競争が常態化する環境においては、過剰な現預金の維持が資本効率を低下させ、企業価値を毀損し得る。
インフレ時代の経営戦略
インフレ下では、物やサービスの価値が上昇し、相対的にお金の価値は低下する。そのため企業は、次のように「守り貯める」経営から、「投資と資本配分によって価値を伸ばす」経営へ移行しなければならない。デフレ時代に有効であった現預金の積み増しは、インフレ時代には企業価値を損なう戦略になり得るのだ。
❶ 成長投資の検討
設備投資、研究開発、人材投資、M&Aなどにより自社のビジネスモデルをアップデートさせるための投資
❷ 賃上げと生産性向上
賃上げによる優秀な人材の確保、1人当たりの貢献価値の向上、自動化・デジタル化による要員計画の見直し
❸ 資本効率の見直し
キャッシュポジションの見直し、負債の活用方法の検討、付加価値の高い機能の内製化
❹ 価格戦略
コストプッシュ型のインフレに耐え得る価格転嫁と高付加価値化
❺ 調達戦略の見直し
調達先の分散化、調達の前倒し(価格上昇前の調達)
誤解してはならないのは、成長投資とは単に支出を増やすことではない。企業は引き続きコスト構造を見直し、限られた投資で高いリターンを生む事業モデルを構築する必要がある。その上で、財務健全性を維持しながら、コスト上昇局面でも安定して売り上げ・利益を創出できる事業へ資本を振り向けることが重要である。
成長投資に対する問い
過去に投資してきたはずなのに、既存事業が安定するにつれて維持・更新投資が中心となり、事業の発展につながりにくい企業は少なくない。その結果、投資を上回って得たキャッシュフローが現預金として蓄積される。ここで言う成長投資とは、「自社の付加価値を高め、将来の収益力を引き上げるための投資」である。
成長投資を判断する際は、戦略性・採算性・安全性の3つの観点を用いることで、経営会議で意思決定しやすい基準へ落とし込むことができる。(【図表】)
【図表】成長投資を判断する3つの観点
出所 : タナベコンサルティング戦略総合研究所作成
この3カテゴリーについては、投資利回り、回収期間、手元流動性、下振れ時の損失許容額などの数値基準と結び付けることが重要である。これにより、成長投資は感覚的な判断ではなく、経営として説明可能な意思決定となる。
今後、企業が成長投資を検討することは、選択肢ではなく経営上の必須課題となる。経営陣は、納得性のある投資基準に基づき、財務健全性と成長性のバランスを取りながら資本配分を見直す必要がある。インフレ時代において、高収益を維持する企業となるためには、現預金を守る力だけでなく、資本を生かして付加価値を高める力が問われる。
タナベコンサルティング
上席執行役員 ストラテジー&ドメイン
金融機関での業務経験を経てタナベコンサルティングへ入社。中堅企業や大企業に経営戦略全般を支援している。特に戦略策定から実行に移す際の数値・行動計画への落とし込みを一気通貫で支援することを得意としており、絵に描いた餅にならない論理的な計画策定はクライアントから高い評価を得ている。