人的資本経営は価値観転換の機会
現在、企業経営において、人材の課題の重要度が上がっている。生産年齢人口の減少に伴う人材獲得競争の激化、政府の要請に基づく賃上げに対する社会的責任とコストプレッシャーの拡大、働き手の価値観の変化と多様化……。
どれも今に始まったことではないが、これらの環境変化に対して私たち経営者は対症療法から脱却し、対因療法を施す機会とすべきではないだろうか。「人的資本経営」に着目し、人材価値の創造を考えることは、私たち経営者の価値観の転換、すなわち「パラダイムシフト」により持続可能な企業をつくるための機会と考えている。
人的資本投資を、政府からの呼び掛けに伴う賃上げや、「コーポレートガバナンス・コード」における人的資本開示の義務化を受けた一時的なトピックとせず、より戦略的なテーマとして切り込んでいきたい。
人的投資で成長性と収益性、持続可能性を高める
経済産業省は、人的資本経営について「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営の在り方」と定義している。これを読んで、私は「分かったような、分からないような」名状し難い違和感を覚えた。長年にわたるコンサルティング経験の実感と相違があったからだ。
日本の経営者は、経営の神様・松下幸之助から「企業は人なり」と学び、現代経営学の父・P.F.ドラッカーからは「企業とは人であり、その知識、能力、絆である」と教えられ、これらを実践してきたと考えている。私の知り得る経営者も、人材の採用・育成・活躍・定着に関心を払い、人材を大事にしている人ばかりだ。あらためて人材の大切さや人への投資を強調する必要があるようには思えなかった。
ところが、世界標準と比較すると、日本の賃金レベルは低い。しかも30年間伸びていない。人的投資においては米国企業の約20分の1(厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」)、労働生産性においては近年上昇しているもののOECD加盟38カ国中27位で、米国の6割弱(日本生産性本部「労働生産性の国際比較2022」)である。
違和感を覚えた原因は、現場の実感と世界標準とのギャップにある。このギャップは単に「人的資本に投資をしましょう」という提言だけでは埋まらない。本質的な価値観やものの見方・考え方を変える必要がある。「成長のためには人材投資が大事」「生産性を上げて賃金を上げる」という思考では駄目なのだ。
すなわち、後先を逆にしてみる必要があるのではないか。「人材投資で成長性、収益性を上げる」「賃金を上げて生産性を上げる」と。一見、言葉遊びのようにも思えるが、思考プロセスにおける影響は大きい。より踏み込んだ表現を使うと、「人材で勝つ」「人材投資で儲ける」という思考が必要ともいえる。
さらに、人的資本経営を事業戦略の中に、つまりビジネスモデルに組み込むことで、企業の持続可能性を高めるという思考も必要だ。人材を「経営」の領域だけではなく「事業」の領域でも考える。「自社の固有技術と人材を強みとし、新しいマーケットと顧客を創造する」ということだ。「マーケットと顧客を創造するために、どのような固有技術や人材を集め、育てるべきか」ともいえる。
このように「人から思考する事業戦略・ビジネスモデル」という事業センスが、今の経営者には求められる。
3C分析から始める勝てる場の発見
人的資本経営を事業戦略と捉えるなら、最初に行うべきことは、3C(市場環境、競合環境、自社)分析を実施し、自社の勝てる場の発見と勝てる条件づくりをすることだ。
人的(労働)市場では、需要と供給、賃金レベル、労働関連法制、働き手の価値観が常に変化しており、すぐに昨年度の「当たり前」が通用しなくなる。しかも切り替わりの境目がはっきりしないから、変化を捉えるのが難しい。また、首都圏・都市部・地方、新卒・キャリア・年齢・性別・業界・職種などによっても違いがあり、これらも常に変化する。したがって、人的市場を定点分析して敏感に変化を捉え、速やかに自社の軌道を修正しなければいけない。
「最近の若い人は何を考えているのか分からない」と年配の経営者から聞くことがある。これはマーケティング的には「顧客のニーズが分からない」と言っているのと同じである。何気ない一言だが、問題の大きさを理解してもらえると思う。人的市場は変化しているのだから、変化を捉えて対応しなければならない。
経営者への5つの提言と課題感
前述した現状を踏まえ、本フォーラムのテーマ「人材価値を創造する」では、①戦略から思考した人材ビジョンの設計、②人事KPIの設定と具体策への落とし込み、③熱量ある組織づくり、④ジョブの再定義による組織変革、⑤戦略・組織を支える制度づくり、という5つの提言をしている。これらの提言に至った課題感と方向性を次に記載する。
1.人的資本から考えたビジョンとビジネスモデルのデザイン
繰り返しになるが、勝てる場の発見と勝てる条件づくりが重要である。すなわち「どんな仲間(人的資本)で、何を成し遂げるのか(ビジョン)」だ。そして、これをビジネスとして成立させることが大事である。
ビジョンとビジネスをつなげるのが経営者の仕事であり、その先に会社の独自性が形作られることも忘れてはならない。次に3つのモデルを紹介する。
モデル1バリューチェーンの「コア業務」への集中による生産性向上
収益源となるバリューチェーンへの人的投資や、コア業務への人的投資で生産性を向上させるモデルである。分かりやすくいえば、儲かっている機能・業務・行動に集中するためのサポート体制を築いていくのだ。
建設業で例えると、建築技術者は建築というコア業務に集中し、コア業務以外はアシスタントが担当することにより生産性を上げる。逆のパターンもある。リフォーム事業などでは、営業から施工、アフターフォローまでを1人が担当してつなぎ目を少なくし、生産性を上げることができる。この場合でも、資材調達や施工手配など顧客と直接やりとりする必要がない業務に関してはサポートチームが担うなどのモデルが考えられる。
ある商社は、バリューチェーンのうち営業のエンジニアリングサービスが差別化と収益の決め手であると分析し、ベテラン技術者で構成された技術サポート部を設置した。社内相談窓口として数百名の営業担当者をサポートし、受注確率を高めることで生産性を上げている。自社のバリューチェーンの機能におけるコア業務を行動レベルで分解し、生産性向上の視点から人的資本に投資するモデルである。
モデル2高収益事業への人材投入モデル
高収益事業へ人材を投入するのは当たり前だと感じられるかもしれないが、コンサルティングの現場を見ると、最もできていないのはここだ。企業は変遷を重ねると本業が伸びない、儲からないということが起こる。これに対し、新規事業を立ち上げても、組織の中では傍流扱いされて伸ばし切れていないケースが多い。
売上高200億円のある食品メーカーは、売り上げの70%を占める主力の家庭向け事業が伸び悩んでいた。売り上げ構成比28%は業務用やOEM受託事業で、薄く利益はあるが成長していない。
唯一伸びていたのは、ウェブ通販事業であった。売り上げ構成比は2%で約4億円あり、高粗利益率である。ただ人員は女性社員が2名で、業務はひっ迫しているにもかかわらず社内では傍流扱い。組織的な位置付けは営業本部の一部門で、本社からのサポートも弱かった。
そこで、ビジョンの見直しをきっかけに、ウェブ通販事業に投資することを意思決定してさまざまな手を打った。チームを本部に昇格させ、女性を中心に採用して人員を一気に20名まで増やし、システムやブランディングにも投資。さらに、商品企画・調達・生産・物流といったサプライチェーンにおいては、ウェブ通販本部からの要望を最優先して体制を整えた。また、人事部においても優先的に採用を推進し、人事制度を女性が働きやすいものに変更するなど、全社的にウェブ通販本部の強化に注力した。
その結果、コロナ禍の影響によるマーケット変化も追い風になり、今では売上高20億円、限界利益10億円、部門営業利益3億円の高収益部門に成長。この会社の新たな収益の柱になっている。
モデル3人材視点からの新規事業立ち上げモデル
自社を取り巻く人的環境から思考した、採用・育成・活躍・定着できる社員で新規事業を立ち上げていくモデルである。
売上高200億円のある中堅建設業が本社を構えていたのは、工業高校や高等専修学校の電気科・電気工学科の新卒が多い地域であった。このことに目を付けた同社は、これらの学校の新卒採用の強化に取り組んだ。新卒者の主な就職先である地域の電気工事会社や電機関連メーカーより高い初任給を設定して募集をかけたのだ。
もともと知名度があった同社には多くの新卒者が応募し、電気技術を学んだ人材が多く集まった。採用した専門人材を中心に、同社は電気工事事業や空調設備工事事業を立ち上げて拡大し、現在ではさらにエネルギー事業へと範囲を広げて成長している。
業界として技術者の採用が厳しい状況であることには変わりないが、そうした中でも地域特性を読み解いて採用できる人材を集め、事業を拡大した事例である。
採用が困難な事情があろうとも、「採れない」と嘆いているだけでは始まらない。3C分析で勝てる場を発見し、人材を投入して新しい事業を立ち上げていく必要がある。
2.人材ビジョン(戦略)のデザイン
人材ビジョンは人事ポリシーとは異なり、あくまでも戦略である。勝つためにどのような人材を集め、投資し、収益を上げるのか、そして何を成し遂げるのかを、ビジョンとしてまとめる。
人材ビジョンは、つくり方がポイントとなる。まずは人材に関して、取締役や幹部陣の間で共通認識を持つことが大切だ。そこで人材キャンプの実施をお勧めする。年1回、経営会議メンバーが集い、人的資本の3C分析をして、自社の勝てる場の発見と勝てる条件づくりのベクトルを合わせる。その上で人材ビジョンをデザインし、全社のベクトルを合わせてほしい。
3.人事KPI・エンゲージメントKPIのデザイン
人材ビジョンを定めた上で、人事KPIとエンゲージメントKPIを設計し、各部門の具体策へと落とし込んでいく(【図表】)。各社の戦略により人事KPIは異なるが、基本的な項目として働き方に関するKPIはもちろん、戦略に基づくKPIも打ち立ててほしい。
【図表】サステナビリティを基盤に人材ビジョンを策定し、ビジョン実現のためのKPIを設計
出所 : タナベコンサルティング作成
また、エンゲージメントKPIは、タナベコンサルティングが提供する「TCGエンゲージメントサーベイ」であればスコア100点満点中70点を目指していただきたい。
4.熱量のある社員を生み出すジョブデザイン
組織名称、仕事名称と職務内容を、よりクリエイティブな仕事や、周りから感謝される仕事にリデザインしてほしい。「管理部⇒コーポレート戦略本部」「経理部⇒財務戦略本部」といったリデザインだ。
「これだけやっておいてくれれば良い」といった仕事のさせ方や職場の環境が、人材の成長を阻む。「それがやりたい」「それを一緒にやりましょう」と前向きに取り組めるような、エンゲージメントが高まる組織と仕事に変化させてほしい。
5.戦略・組織を支える制度とHRDXのデザイン
(1)メンバーシップ型人事制度の課題点を修正
「ジョブ型人事制度」に注目が集まっているが、一足飛びにジョブ型に変えるのは現実的ではない。大事なことはメンバーシップ型で修正すべき点を修正することだ。しかも時間をかけるということが大事である。
私はメンバーシップ型の課題である年功序列(年齢格差)、男女格差、部門格差などの是正から入ることをお勧めしている。10等級以上ある人事フレームの圧縮や、総合職・一般職の廃止、男女間格差の是正、ラインとスタッフの給与テーブルの統一などである。
逆にメンバーシップ型の良い点は継続していく。教育制度や多種多様な経験による総合性の育成、チームワークなどである。
(2)アカデミー(企業内大学)設立宣言の勧め
岐阜県にある関ケ原製作所(創業1946年、年商248億円、社員数393名:2023年5月現在)の代表取締役・矢橋英明氏はこう言い切る。「ひろば51%と事業49%のバランス経営を探求する」。
「ひろば」とは、人材や基盤づくりのことを指す。「会社はみんなのもの」という創業の精神を深く胸に刻み、これを基本方針として実践している。聞けば、月1回の取締役会のテーマは、ほとんどが「ひろば(人づくり)」についてだそうだ。そして、さまざまな人材育成や環境づくりを実践している。
なお、業績は好調であり、何より離職率が極めて低い。人材育成に力を入れることが業績につながるという見本のような会社である。
さあ、人材育成に力を入れよう。それがアカデミー設立を宣言することによって実践されることを願っている。
PROFILE
長尾 吉邦
Yoshikuni Nagao
タナベコンサルティング 取締役副社長
タナベ経営(現タナベコンサルティング)に入社後、北海道支社長、取締役/東京本部・北海道支社・新潟支社担当、2009年常務取締役、2013年専務取締役を経て、現職。経営者とベストパートナーシップを組み、短中期の経営戦略構築を推進し、オリジナリティーあふれる増益企業へ導くコンサルティングが信条。クライアント先の特長を生かした高収益経営モデルの構築を得意とする。著書に『企業盛衰は「経営」で決まる』(ダイヤモンド社)ほか。