再び脱植民地主義の流れが起こっている
「政治的、あるいは文化的に強い立場の人や組織が異文化の要素を使っているかどうかという側面は大切です。しかし、それが行為の良し悪しを判断する基準の全てにはならないはずです。大切なのは、文化の借用行為がどのように解釈されるかという点だと考えます」(ワイルド氏)
発信の意図がどうであろうが、騒ぎが起きるときは起きる。受け手次第なのだ。ファッションは可視化されているから論争のネタになりやすい。ファッション産業の世界市場は約200兆円であり、その経済規模から、切迫したムードが生まれやすい。
ワイルド氏は話を続ける。
「英国やフランスなどの宗主国が旧植民国への負債をどうにかすることは考えなければならない。しかも、服の生産はそうした地域に依存しています。もちろん、その構造と歴史的なマクロな流れがつながっているわけでもありませんが、アイデンティティーと絡んでくるのです」
英国でもEU脱退後、「自分たちの文化とは何なのか」が問われている。過去は安定した感覚を与えてくれ、伝統はアイデンティティーを形成する一助になる。しかし、その伝統も他の文化を導入した結果であることを見逃してはならない。だからこそ、国や地域のアイデンティティーが現在、より重要になっている。
一方、2020年5月、アフリカ系米国人であるジョージ・フロイド氏が警官によって殺された事件が、BLM(Black Lives Matter)運動※に火を付け、帝国主義時代当時の植民地の記憶を呼び起こした。移民や難民の問題に頭を抱える欧州にあるファッションハウス(高級ファッションメーカー)を、ワイルド氏は辛らつに批判する。
「帝国主義時代当時の植民地の人に対して、一方では彼らを拒否する態度を取りながら、一方では『君たちの色や素材は欲しい』と言っている。欲しいところだけ取ろうとしているので、ルイ・ヴィトンのジャマイカの文化に捧げたと説明するニットなどは偽善に見えるのです」
受け手にとって、文学はしっかりと文字面を追い、音楽は曲をじっくりと聞かないと、異文化の扱い方の在りようがよく分からない。だが、服は多くの人に可視化される。ファッションは異文化の理解不足に気付かれやすいのだ。したがってこの領域を中心に、今、「脱植民地主義」という言葉が再び盛んに使われているのである。世界はフラットになったと思っていたら、実際はそうではなかった。そう人々は気付いた。しかし、「ファッションハウスはその事実をビジネスのために利用しようとしている。そうとしか見えない」とワイルド氏は指摘している。
※黒人に対する人種差別抗議運動
差異を認め互いに敬意を持つ
本連載で何度も触れたが、中国やインドなどでは、自らの文化に基づくラグジュアリーブランドを立ち上げる動きが加速している。私はその動きをどこの国においても文化的感度が高くなっている証拠だと見ている。よって、文化の盗用にも敏感なのだと思う。先述した内容とも重なるが、ワイルド氏の意見に耳を傾けよう。
「例えば、フランス文化といっても、そこには違った文化エレメントがあります。フランスの文化的遺産とは何なのか?中国の文化的遺産とは?ムスリムのそれは?どれも明確ではありません。そして、ラグジュアリー企業は魅力的な文化遺産を売っているわけです。よって、今や文化遺産の純度を追うのは論争のネタを提供することに他ならず、自滅の方向に向かわないかとも案じるのです」
この10年近くでグローバリゼーションの限界が意識され、2020年からのパンデミックによって、その限界が浮き彫りになった。だから今は多くの国や地域で自文化に人々の目が向いている。しかし、自文化だけでやりくりするにもいずれ限界が訪れる。
「ファッション史を見ている立場として思うのは、ファッションは狭い政治アジェンダには収まり切らないということです」(ワイルド氏)
ファッションはその性格から人と人を結び付けるツールともなる。だから、ルイ・ヴィトンのジャマイカのニットにまつわる文化盗用騒動を「無知」で終わらせるのではなく、ファッションをもっと範囲の広い社会的な行動に使うことを、ラグジュアリー企業は意識すべきかもしれない。そうなれば、文化の盗用回避や異文化に関する教育が業界の課題になってくるだろう。
「教育は必要です。実際、教育機関のコースはそういう方向にかじを切りつつあります。世界史やそのコンテクストに焦点を置いた科目の設置です。私たちは文化における価値の差異をよく知れば知るほどに、他者と一緒にやっていけると思うのです。しかし、現実では、そうした差異を受容・賞賛するすべを知りません」とワイルド氏は論を展開する。
共通点を見つけることが平和になる鍵であるとよく語られる。もちろん、それは大切だ。だが、共通だと思っている点にも違いがあるのが、異文化間のトラブルの大きな要因である。だから、安易に「同じだね!」と飛び付くのではなく、違いをしっかりと受け止めることを起点にしなければならない。差異を認めれば、互いに敬意を持つ感覚が磨かれていくのだ。
ビジネスパーソンもそのことに気付き始めている。世界中の教育機関やファッションビジネスの組織がウェビナーで議論を重ね、研究者と実践者の建設的な対話も増えてきた。グッチは冒頭で紹介したあの黒いニットの事件の後、ファッション研究機関に助言を求めてきた。世界各地のデザイナーを採用しやすいようにする奨学金制度も公表した。
ワイルド氏は、「ファッションの教育機関は、これまでデザイナーなどその産業で働く人の供給元でしかなかったと言えるでしょう。一方通行でした。でも、ビジネスサイドが継続的に学ぶ必要性を感じれば、ファッション教育はより生産的で、興味深くダイナミックなものになるはずです。ファッション分野は欧州と白人を中心とした見方がいまだに強いですが、もう持ちこたえられなくなっているのです。特にラグジュアリーの消費者は目が肥えてきて、新しい世界観が表現されたものを欲しがっています」と語る。
企業は、異文化要素を安易に使用する時期はとっくに過ぎていると理解すべきだ。また、日本の企業は、海外市場に向けて日本のステレオタイプなイメージや日本語のキャッチコピーなどを深く検討せずに使えば、自らの首を締めかねないことを自覚する必要がある。文化意識の低い企業の商品は、どこかに爆弾を抱えていると見られるに違いないのである。