マーケティング色が濃い米国のサステナビリティー
後日、私はスクエア氏にインタビューを申し込んだ。まずは、サステナビリティーという言葉が限定的に使われていることを、どう考えているかと質問した。
「重要な問いだ。人々への尊重と自然環境は互いに関係しており、この両方を同時に考慮しない議論には意味がない。例えば、ハイチ共和国における森林伐採は農園経済によるものだし、ブラジルの大西洋側熱帯雨林もコーヒーや砂糖の犠牲になった。サステナブルブランドは、それなりの価格で販売されているが、私は作り手とそのコミュニティーのことを考えれば当然だと考える」とスクエア氏は返した。
次に、前述したスカンディナビア諸国とイタリアの間にあるサステナビリティーの動機の違いを引用し、米国におけるサステナビリティーはどうかと質問した。
スクエア氏はやや皮肉な表情で「米国ではマーケティングだ」と間髪を入れずに答えた。「サステナビリティーとの言葉で新しい聴衆を引き付けることに、最も重きが置かれている。実際、ほとんどの企業がやっていることはグリーンウォッシング(環境に良いことをしているフリの意)だ。自然素材を使っていると言っても、よく調べてみると、そうではない商品と同じく害をまき散らしている」と話す。グリーンウォッシングは米国に限らない現象だが、それがより目立つということだろう。
やや方向を変えて、私は職人技や原産地を強調する昨今の動向について意見を求めた。
「原産地呼称への注目がサステナブルな動きにつながるというのも疑わしい。『私が住んでいる場所で職人の手で作った物だから良い』と語るトレンドは確かにある。だが、これも目を光らせないといけない。素材や一部の材料は国外からきて最終工程だけ表示国で行うことも多い。
米国では一種の外国嫌いが動機になっている。例えば、中国産は質が低いと見る人が相変わらず多い。実際には、中国は世界をリードする製造国であり、ラグジュアリー製品もそうでない製品も作れる。中国に対する偏見が、少なくない米国人の中にあるのだろう。
ブルックスブラザーズも、ある時期から国外で製品を生産するようになった。国内で作っていたのは一握りのアイテムだけ。だから、これはマーケティングの一手法と見るのが適切だと思う」
彼は、マーケティング志向が強い米国の傾向を再びそう強調した。
サプライチェーンに関わる国内外の状況を全て把握しないと、どのプロセスで労働基準や環境保護ルールに抵触しているかが見えない。大手企業の場合、国外の製造プロセスを確認するシステムを整えているが、孫請け以降は抜け道も多い。よって、国内プロセスだけはガラス張りにすることで、国外プロセスの不透明さを補完しようとする意図がないとは言えない。第三者には、そう見えてしまう。その点をスクエア氏は指摘していると私は解釈した。
経験や思想を購入する感覚
19世紀、英国の社会思想家であるウィリアム・モリスは、産業革命による生活の質の低下に異議を唱えた。彼が率いたアーツ・アンド・クラフツ運動をラグジュアリーの観点から再評価する声がある。この動きを参考に、ラグジュアリーの新しい方向性についてスクエア氏に意見を求めた。
「(モリスへの注目は)ある意味、ルネサンス(古い文化の復興)と言って良いものであろう。つい最近まで、ラグジュアリーとは高級な時計やバッグのような派手なモノに代表されてきた。これはこれでなくならないだろう。年齢を重ねた世代の間で愛好されていく一方、新しい考え方をする若い世代も、そうした製品をたまには買うだろう。イメージとしては子どもが水遊びをするような感じだ。いわばラグジュアリーというアイデアで遊ぶのだ」(スクエア氏)
この「水遊びのような」という表現にハッとさせられた。年齢を重ねた世代の人たちも、高価な製品を買う時、あらゆる点から合理的に判断しているわけではない。水しぶきを上げながらはしゃぐような気持ちで、購入を決めることも少なくないはずだ。いわばハレの空間や時を自ら作り、楽しむようなものだ。さらにスクエア氏は言葉を続ける。
「若い世代で言うなら、大学の学生たちも何か特別に思う物を欲しがる。インスタグラムに投稿することを目的の1つとして、バカンスの経験も買う。つまり、物をソーシャルメディアのために購入していることになる。ラグジュアリーとは、記録することに意味があるのだろう」
この延長線上に、ソーシャルメディア投稿を目的とした高級バッグからプライベートジェットに至るまでのレンタルビジネスがある。30分間、プライベートジェット機内で写真を撮るためだけに借りるのだ。
では、モリスが主張したクラフト製品をどう考えればいいのか。
「ラグジュアリーアイテムがよく作り込まれたものであるとは限らない。
米ニューヨークにテルファー・クレメンス氏という若い黒人デザイナーがいる。彼のアイテムは作り込まれていないのに、欲しがる人が多い。それは、彼のライフスタイルやブランド美学に引かれているからだ。購入者はそのムーブメントの一端を担っていたいのだ。
実は、私もバッグを1つ持っている。材質はプラスチックで、チープなトートバッグのようである。値段は250ドルと安くはないが、ラグジュアリーの価格帯でもない。私は彼を応援したい気持ちからバッグを買ったので、同じように彼のアイテムを持っている人を見ると、同じことを理解し合った仲間のように思える。これが新しいラグジュアリーの感覚だ」(スクエア氏)
19世紀、モリスは社会政治的な運動に足を踏み入れた。スクエア氏は、モリスの強調した物の質感や職人の多大な労力・技量ではなく、やや余裕を持って社会に意味のあることへ関わる点にラグジュアリーの力点を置いている。彼の話すバッグで例えるなら、材質からすれば20~30ドルで販売されるのが妥当な商品だが、別の価値のために200ドル以上支払う行為がラグジュアリーなのだ。
高級ブランドだけを希求しない
最後に、ベイン・アンド・カンパニーが2020年11月に発表したリポートにおいて、ラグジュアリー市場を「私たちはもうこの分野を高級品とは呼ばない」と記したことへ対する感想を聞いた。
「抜け目のない言葉だ。人々はラグジュアリーとは少々暗部のある世界だと思っている。エリートやエスタブリッシュメント※とひも付いているからだ。しかし、当のエリートはわざわざ世界の中の1%であると見られる必要がないため、若い世代なら高級時計やバッグをたまに買いながら、コンバースのようなストリートファッションブランドのパンツやTシャツも着るはずだ」(スクエア氏)
あまり目立たない風体でいるのが格差社会では安全であるとの理由もあるだろう。しかし、何よりも米国社会の中で高級ブランドとアイデンティティーの距離が非常に遠くなっていることを実感させる意見だ。高級ブランドのロゴを希求する人が多い中国市場の傾向と、他の先進国の市場の傾向には大きな乖離がある。その一方で、中国にも自国文化に基づいたクラフト的なラグジュアリーへの機運もある。ラグジュアリーという分野をいかに多角的視点で見続けるか、それ自体が今後の大きな課題かもしれない。
※強い権力を持つ勢力が確立した制度や体制