人々の価値観や電子商取引の浸透など、この5年ほどでラグジュアリー市場を取り巻く環境が大きく変わった。今回はいくつかの例とともに、スイス時計について紹介したい。
ラグジュアリー市場に変化の兆し
ラグジュアリー領域にとって購買層の若年化が意味するところは大きい。これまでも、年齢層を問わずファッションのカジュアル化の傾向があったものの、若年層ではさらに加速するとみられる。そのアイテムの代表例がスニーカーである。
スニーカーの市場投入が目立ち始めたのは2017年ごろからだ。フランスのバレンシアガが、一見して「ごつい」高額スニーカーを投入して大ヒットさせたのが2018年初めである。
一方、普段は使用されていない空間などで一定期間だけ営業するポップアップストアも増加している。かつては、世界各地の都市の中心にある不動産価値の高い通りに同じ内装の店舗を持つことが、ラグジュアリー企業の証しであった。だが、プラダが2018年の前半期だけで36カ所にポップアップストアを開いた。新しい客をつかみ、そのデータを収集していくには新しい場所で試行錯誤をする必要があったのだ。
目的はそれだけではない。いわゆるブランド通りの高級店へ足を踏み入れることに優越感を持っていた顧客層が、従来の購入経験をさほどうれしいと思わなくなってきたのである。しかも、その商品はオンラインでも購入可能なため、さらなる希少経験が欲しい顧客を満足させるには、場所・期間限定で経験できる方が理にかなう。皮肉といえば皮肉な展開だ。
このように、ラグジュアリー商品の販売現場が変わりつつある。
盛況なセカンドハンド市場
セカンドハンド(中古品)市場の勃興も注目に値する。高級ブランド企業がセカンドハンドのオンラインプラットフォームとの提携に力を入れている。「ラグジュアリー商品=中古品購入」という公式が新しい世代(1990年代後半から2010年の間に生まれた、いわゆるZ世代)に浸透しつつあるのだ。彼・彼女らのコストやエコロジーに関する意識が一因となっている。
中古品を買うに当たり、「実店舗は信用でき、オンラインショップは信用できない」とも想像しがちだが、これが逆転しつつあるとも言える。オンラインの持つプロセスの透明性や購入者評価の可視化がセカンドハンド市場を後押ししている。結果として、新たなプレーヤーも参入している。
高級ブランドをはじめ、すでに名のある企業がセカンドハンド市場の成長に貢献すればするほど、スタートアップ企業がこの市場を狙うチャンスも広がる。取扱商品が本物であると証明できるシステムと仕組みが構築できれば、スタートアップにとっては利益の取りやすいマーケットかもしれない。
また、このビジネスは欧州市場が先行しやすい。あまりに高額で手が出なかったが、セカンドハンドの価格帯なら欲しいというのは良識的な欧州人が抱く心情だ。あるいはセカンドハンドの良さを見極められる目利きであることを、かすかな自己満足の足しにする人たちもいる。
欧州とは反対に、新品の市場で突出している中国市場は、ブランド品の偽物が横行するがゆえにセカンドハンド市場ではやや出遅れている。これは肥大化したラグジュアリー市場が反転している風景である。
輸出本数が減少し輸出金額が上がる
セカンドハンド市場はバッグが有力商品だが、時計も厳然とした優位性を誇る。時計には、従来から宝石と並ぶヴィンテージ市場がある。今回は時計業界そのものに注目したい。その動機は次のエピソードによる。
2020年7月、私はイタリアのミラノ工科大学ビジネススクール主催のウェビナーを視聴した。そこに登壇したLVMH(エルヴェエムアッシュ モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループ傘下であるスイスの時計メーカー・ウブロの米国法人CEOの話す言葉が印象的であった。
「米国市場において高級時計は、唯一のブランド誇示ツールになっている」
先述したように、ファッションはカジュアル化の傾向がある。それに伴い全身を高級ブランドでそろえるスタイルはいささか古臭い。ファストファッションとラグジュアリーブランドのアイテムを混合させて自分なりの装いを考える人が増えている。ロゴを誇示するのは「ダサい」との感覚である。
それなのに、時計だけは自己顕示欲を満足させるアイテムとして通用していると言うのである。米国市場でこの傾向が強いとのことだったが、このコメントに私の好奇心は反応した。
現在の高級時計市場を見ようとすると、おのずとスイスの時計に関するデータが中心になる。スイスで設立された時計の産業団体(Federation of the Swiss Watch Industry FH)がまとめているデータに目を通してみた。
2019年の輸出金額はおよそ2兆5000億円(1スイス・フラン=115円換算)、うち95%が腕時計である。推移を見ると、輸出量は減少したが輸出金額は上昇している。本数は前年比13.1%減。2009年のリーマン・ショック時よりも低く、1980年代初頭の本数である。しかし、金額は同2.4%増なのだ。
売れ行きの良いタイプははっきりしている。機械式の高価な材質を使用している約35万円以上の時計に限って伸びており、他のセグメントは低調だ。
輸出先では、2019年に政治的混乱があっても香港がトップで、2位は僅差で米国。そして中国、日本、英国と続く。地域で見るとアジアが世界市場の53%を占めている。その他の地域は欧州が30%、米国は15%である。
一部の富裕層が高額の時計を買うことで勢いを維持しているのが実態であろう。しかしながら、スイスの時計は高額材料と高い技術の組み合わせという評価で「黙っていても売れる」結果として、今のステータスがあるわけではない。少々長くなるが、スイス時計の歴史をひもとくことにする。生産の仕方もさることながら、販売方法の変化によって現在の姿があるのが分かる。
大阪大学経済学研究科の教授、ピエール=イヴ・ドンゼ氏の論文「The transformation of global luxury brands: The case of the Swiss watch company Longines, 1880–2010(グローバルラグジュアリーブランドの変遷:スイスの時計メーカー・ロンジンのビジネス史 1880-2010年)」と著書『History of the Swiss Watch Industry(スイス時計産業の歴史)』やその他の資料を参照していく。