その他 2020.08.19

Vol.11 これからラグジュアリーに求められるもの

市場で価値を持つ要因は「図らずも」

 

本連載がラグジュアリー論であり、ラグジュアリーブランド論ではないことは連載2回目(2019年12月号)に説明した。同様にラグジュアリー論とラグジュアリーブランド論の違いを、勉強会でも全員で確認した。

 

ラグジュアリーの成立要件の一つは、「社会的なステータスを実感すること」だといわれることがある。「あの人たちと私は違うのだ」と自分自身で思いたい、あるいは他人に見せつけたいとの傾向を指している。

 

これは人の社会的欲求であるため、否定することができない。

 

ラグジュアリービジネスの場合、こうした欲求を刺激する手法が多用される。ラグジュアリーブランドの「いやらしさ」は、この点にある。また、このいやらしさから、ラグジュアリーを語ることに積極的になれない人も少なくない。日本の中年男性新聞記者が「私たちはデータに基づき、マスにいる読者に情報を届ける。ラグジュアリーのような差別的な社会観にくみすべきではない」と語るのも、このあたりに要因があるのだろう。

 

モリスの場合を思い出してみよう。彼は美の表現者としてだけでなく、社会的な存在としても職人に注目した。社会主義の思想に強く影響を受けた彼は、労働者が社会で疎外されないよう考えた。産業革命で品質の劣る製品が出回ったことに違和感を覚え、中世にあった職人の技を理想として、ステンドグラス、テキスタイル、家具などをデザインして製品化した。結果的にモリスの商品は高額になり、富裕層からの人気を博した。

 

このことから、モリスは不本意ながらラグジュアリー領域に従事したことになる。この「不本意ながら」という部分が鍵である。「図らずも」社会的なステータスをアピールすることに貢献してしまったのだ。

 

モリスの活動が、一般のビジネスとして失敗とされる理由はここにある。だが、ラグジュアリーでは「図らずも」との表現が市場で価値を持った証拠である。あまりに素晴らしい商品ができてしまい、それらを「大枚をはたいてでも買いたい」と欲する人が続出したのである。

 

ラグジュアリーブランド論は「図って」道筋を探る話と相性が良く、ラグジュアリー論の「図らずも」は「消費者がラグジュアリーであると評価する」方向と親和性がある。ラグジュアリーかどうかは、消費者が判断することなのだ。

 

勉強会の参加者たちはラグジュアリー論を圧倒的に支持し、自分のビジネスもその方向で考えたいと語っていた。そして、従来のラグジュアリー論を打ち破る新しいラグジュアリー論が必要との認識に至った。

 

そのためには、原点に戻らなくてはならないと感じている。

 

 

クラフトに回帰するラグジュアリー

 

ラグジュアリー論においては、「ローカル」と「オーセンティック(本物らしさ)」が正道であると長い間考えられてきた。「世界のどこからでも供給可能」なのではなく、ある地域でしか生産できなかったり、サービスが提供されなかったりすることに意味がある。エルメスはフランスのパリであり、フェラーリはイタリアのモデナであることに意味がある。そして、機械でたくさん同じものを作るのではなく、熟練した職人が手を使って丁寧に作り上げるプロセスも含め、出来上がった物が本物として敬意を表されることに重点を置く。

 

しかしながら、グローバリゼーション華やかな時期、この二つの言葉はあまり顧みられなくなっていた。モノの質感ばかりでなく、「サービスを含めるところに、アップデートされたラグジュアリーの姿がある」と盛んにいわれた。かつてラグジュアリーをラグジュアリーたらしめていた条件が、忘れ去られる風潮があった。

 

質感など「古くさいこと」に関わっていると、スケールを拡大できないといった「弁解」で、セカンドラインやプレミアムブランドをカバーするための機械化と生産地の分散が図られた。この20年くらいの間に起きた、いわば、「肥大化したラグジュアリー市場」とも言える(勉強会では、この市場での戦い方を知るのは大切であるが、それをなぞる必要はないとの意見が多かった)。

 

これに対して、新しい世代がモリス的なクラフトにラグジュアリーを見いだそうとしているため、「肥大化したラグジュアリー市場」は壁にぶち当たるようになってきた。そこで各社とも方向転換を探っているところに、新型コロナウイルスの衝撃波がきた。長いサプライチェーンが先行き危ないことは、誰の目にも明らかになった。生産の確実性という点でも、市場の規模という点でも、従来の市場トレンドの延長線上に、さらに大きな拡大があるとは考えられなくなった。

 

イタリア・ミラノの都市封鎖が解除されて間もない6月中旬、私はとある高級ブランドメーカーのクリエーティブディレクターに話を聞いた。すると、まず「数字や戦略が優先するラグジュアリーには関心がない」とけん制された。

 

もともとクリエーティブ関係の人は、これまでの「肥大化したラグジュアリー」とは距離を取る傾向にあった。仕事として関与があったとしても、「それはお金のために仕方なくやっている」という体裁を取るのである。

 

そして、自分が好きなモノやコトを夢中になって語る。彼女の自宅のリビングルームには世界中から収集したモノや書籍があふれている。ともすれば混沌と見えかねない。しかし、なんとも豊かな品の良い空間なのである。

 

「これはフランス西部の教会で使っていた柱の一部」「あれは北欧の木工職人の作品」などと、オブジェの由来を説明してくれる。「これがラグジュアリーの神髄なのだ」と、その時に思った。これが勉強会で参加者が熱心に語っていた世界だ。

 

彼・彼女らは、「ラグジュアリーは最も非生産的な方法を重視して作られるものだ」「採算度外視でも作りたいものを作る」との姿勢を持ち続けることで花開かせる大切さを訴えていた。

 

もちろん、全てを回帰させたり、採算を度外視したりするわけではない。事業の一定の割合については、そのような挑戦をしないということだ。クラフト感のある商品を好む新世代も、デジタル技術を最大限に使いこなしたシステムと人肌を感じる世界の両立を望んでいるのである。

 

オフラインとオンライン、リアルとバーチャル、どちらかの配分の多さ・少なさではなく、合理的で感覚的に心地良い融合が求められている。

 

 

 

PROFILE
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安西 洋之
Hiroyuki Anzai
ミラノと東京を拠点としたビジネスプランナー。海外市場攻略に役立つ異文化理解アプローチ「ローカリゼーションマップ」を考案し、執筆、講演、ワークショップなどの活動を行う。最新刊に『デザインの次に来るもの』(クロスメディア・パブリッシング)。