2019年1月、米セールスフォース・ドットコムは「CEO(最高倫理責任者)」という幹部ポストを新設した。行動ターゲティング広告や顔認証など技術の革新が進む中、テクノロジーの倫理的・人道的利用を推進する必要があるとの認識からだ。今回は企業倫理が強く求められるようになってきた背景について考えたい。
ラグジュアリーブランド企業と社会的責任
本連載の3回目(2020年1月号)で、2019年4月のパリ・ノートルダム寺院の火災後、高級ブランドのグループが即決のような形で修復のための資金を寄付したエピソードに触れた。その真意がどこにあるかはグループトップたちのインタビューだけでは分からない。だが、「社会の良きモデル」であろうとする意図は十分に感じられる。
米ベイン・アンド・カンパニーの2019年の報告に以下のデータがある。
ラグジュアリーブランドの顧客の約60%は「ラグジュアリーブランドは他の産業よりも社会的な責任を果たすべき」と考え、約80%は「社会的な責任を果たしているブランドを好む」と回答。そして「ラグジュアリー商品の価格には、サステナビリティーのためのプレミアムがすでに含まれていると考えるのが当然である」と思っているのだという。
このデータはラグジュアリーブランドが直面する現実をよく示している。ノートルダム寺院修復への寄付を素早く決めたのは、「私たちが動かずに誰が動くのだ?」と、さも当然のことと言わんばかりのアクションだったのである。
最近、カナダのある著名なリテール・コンサルタントが「宗教への信仰者や政府への信頼が激減している中、その代わりにブランドの方針を支持することで、人々は心の穴埋めを行っている」と、皮肉ともいえる現象をコラムに書いていた。
ノートルダム寺院修復への寄付からは、ラグジュアリーブランドと社会的責任の深い関係を垣間見た。ともすると有名企業の売名行為と一蹴してしまうのは、単純な見方なのかもしれない。
オープンに積極的な消費者層の顕在化
2019年11月28日、ミラノ市内で恒例のカンファレンスが開催された。イタリアの高級ブランド企業が集まる財団・アルタガンマとベイン・アンド・カンパニーの年次報告の発表である。18年目になる。一部を先述したが、今回はこの内容について伝えたい。
ラグジュアリー市場自体は2019年も前年比4%の伸びを示しており、特に個人消費材の場合、この10年以上、中国が市場をけん引していることは変わらない。また、オンラインでの購入も同様の上昇傾向にあり、全体の22%を占めている。
動向の特徴として何点か挙げると、「中国人顧客の増加」「客層の若年化」「デジタル化の進行とリアル店舗の集約」「お金で買えないものへの欲求の高まり」「新しい価値やビジネスモデルへの受容の高まり」「社会的責任の増加」「感情的要素の重視」になる。
この中で「新しい価値やビジネスモデルへの受容の高まり」について触れると、キーワードは「オープン」である。「クローズド」を好むと思われてきたラグジュアリーの消費者が、世代を問わずにオープンになってきている。
今までは、「ラグジュアリーはこういうもの」と企業側が発信してきた。しかし、今後は企業側が「ラグジュアリーとは何であるか」を決めるのではなく、消費者が自分の価値で「ラグジュアリー」を判断し、自己表現に使う方向に動いていくというのだ。
その結果として、ビジネスモデルも変わっていく。ラグジュアリー商品を「所有する」のではなく、ラグジュアリー商品に「アクセスする」ことがテーマになる。あるいは「直線的な流れ」から「循環する流れ」である。
具体的に示すならば、シェアリングエコノミーの影響により、ラグジュアリー商品も「レンタル」や「中古」の市場に進出し、「共同所有」という概念が入り込んでくる。この動きはすでにビジネス現象として世界各国で注目されており、ラグジュアリービジネスのルールを変えつつあると考えられている。
そのトレンドをけん引するのがミレニアル世代(1980年初めから1990年代半ばに生まれた世代)である。
Z世代は社会的課題に関心が強い
しかしながら、このトレンドも次の世代によってさらに変貌していくと予想されている。Z世代(1990代後半から2010年の間に生まれた世代)がコンシューマーとして登場してくることによる特徴の変化である。
単に趣味嗜好が変化しているというレベルではなく、前述で指摘した社会的な責任への関心と期待が強い点を見ないといけない。
地球温暖化が社会的問題意識の鋭敏化を促しているのも一例だ。
スウェーデンの17歳の女性、グレタ・トゥーンベリ氏が1人で始めた学校ストライキが世界各地の街頭デモに拡大し、国連サミットなど世界で注目される舞台において「環境破壊の責任は大人にある」と演説する様子がさまざまなメディアで話題になっている。彼女の活動がティーンエージャーの間で知れ渡り、各国の高校生たちを何万人、何十万人と動員するに至ったのは、YouTubeなどのソーシャルメディアの貢献によるところが大きい。
それは単に拡散しやすいツールを個人が手に入れたという意味だけではない。ソーシャルメディアが普通にある世代は、このツールで社会的事象に対しての意見を表明する機会を得たと考えている。自分自身で考え、それを外に伝えるという極めてまっとうな理解をする若者が増えていると見てよい。言うまでもなく他人に振り回される人たちも多いので、より正確な表現を取れば、自分で意見を伝えたい人たちがそれを実施できるようになり、彼・彼女らの意見の存在が可視化されたとの肯定的な面が無視できなくなっている。
これまでにデジタル世代としてもてはやされてきた、ミレニアル世代特有の傾向が変わるのだ。例えば、具体的には次のような具合だ。
「デジタルによって世界にボーダーはなくなり、世界中の人は同じ感覚になっている」とミレニアル世代が謳歌しているのに対し、新しい世代は「そんなことはない。物理的空間も同じように大切だし、グローバルとローカルは互いが一方的にその価値を主張するものではない」と考える。
したがって、ソーシャルメディアも受信側ではなく発信側として使うのだ。実際に会ったこともないインフルエンサーやセレブレティーの言うことに「右に倣え」となるのではない。ソーシャルメディアを通じた友人や近しい人たちと自分の考えを育み、自らの意見を発信していくのである。
「社会には多様性が必要だ!」と大きな声で叫ぶのではなく、「いや、多様性を受け入れるって、境界のあるところをまとめようとすることでしょう? そんな境界線自体を考え直さないといけない。大事なのは、それぞれが文化的に適合しているかじゃないの?」と疑問を挟むのが新しい世代であると見られている。