その他 2017.10.20

Vol.26 よそ者はなぜ成功したか:越後味噌醸造|弥彦酒造

201711_hatawoageru-01

 

みそ蔵と酒蔵

しばしば、地域を元気にするのは「よそ者、若者、ばか者」といわれますが、話はそんなに簡単ではないようです。各地にはそれぞれ古くからのしきたりがあり、保守的な考えが横たわっています。そこによそ者たちが入れば、それまで地域を育んできた人たちが違和感を抱くのは、当然のことでしょう。

今回取材してきたのは、2つの老舗です。1つはみそ蔵、もう1つは日本酒の蔵。どちらも、上越新幹線の燕三条駅(新潟県)から車で30分前後走った、昔ながらの文化が根付く地にあります。

共通しているのは場所だけではありません。まず、この2社ともに「老舗の家業を、他市に本拠のある企業が買収している」こと。次に、「今、醸造の陣頭指揮を執るのは、いずれも、地域外から入ってきた『よそ者』であること。さらには、その2人とも蔵に乗り込んできた時点では、醸造に関してほぼ素人であった」ことです。

う〜ん……。ちょっと考えただけで、あつれきが起きること確実、というふうに思えてきます。

しかし、どちらの蔵も、経営が立ち直ったばかりか、それぞれの商品の味そのものが再び高い評価を得ているのです。

いったい何があったのか。現地を訪ね、取材しました。

まずは越後味噌醸造。旧吉田町(現燕市)で1771年に創業した、古くて小さなみそ蔵です。

それまでは家業として奮闘してきた蔵でした。しかし、後継者難と経営環境の悪化から、この蔵は2015年、新潟市に本拠のある食関連の企業に事業を引き継ぎました。

蔵に出向してきたのは、30代の男性。その木龍康一さんが代表取締役社長に就きました。旧吉田町とは縁がなかったそうです。みそづくりに関して若干の知識はあったものの、製造の指揮を執りながら、経営の立て直しを図るとなると、そう簡単でないのは当たり前です。

 

 

合理化の逆をいく

この木龍さん、従業員を前に、まずどのような方針を掲げたのか。

「それまでこの蔵が守ってきた『木おけでの醸造』を絶対に変えないと伝えました」

ステンレスやホーロー製のおけに比べて、木おけは圧倒的に値段が高い。5倍以上はかかるそうです。メンテナンスにも手が掛かり、おけの洗浄ひとつとっても手間が実にかかるらしい。

それでも木おけを守ろうとしたのはどうしてなのでしょうか。

「この蔵の再生の可能性を、そこにこそ感じたからですね。木のおけを守ることで、未来が見えてくる」

つまり、木おけでの仕込みは越後味噌醸造の極めて貴重な財産。それを生かさないで、蔵の復活はない、という考え方です。

木龍さんに言わせると、木おけで醸すみそは「複雑な味わいが特徴で、ステンレスなどのおけを使うみそが、いわゆる“きれいな味”になるのとは正反対」だそうです。その複雑な味こそが、この蔵の持ち味になるという話。

これは面白いですね。家業が企業に変わるとき、得てして合理化戦略を前面に出しがちですが、そうではなくて、蔵の武器を冷静に見定めたということです。

実際に、『袖ふり味噌』を購入して味わってみましたが、木龍さんの言うことがよく理解できました。ここのみそは相当に味が深い。根菜のみそ汁を作ってみたら、もう抜群でした。力感があるおわんになりました。みそというのは地域ごとに味も原材料も異なるので、消費者によって好みが大きく分かれる調味料ですが、ここのみそはおそらく、そう好き嫌いは出ないでしょう。みそ本来の力強さを再認識できるという点で、多くの人が共感できそうな味わいになっているからです。

とはいえ、一気に市場を広げるというのは現実的ではありません。木龍さんがもう1つ掲げたのは「まず、何をおいても、ほかならぬ地元の人に買ってもらうこと」。越後味噌醸造の味を、再びこの地の人々の間に定着させることができれば、それだけで売り上げは安定します。

そのために、木龍さんは、蔵見学、みそ仕込み体験などのイベントを定期化。さらに自らチラシづくりにも精を出しました。

私はこの戦略、とても理にかなっていると思います。よく、「大都市圏の市場を取れば、地域産品はヒットできる」と言う人がいますが、そんな一足飛びにうまくいくことなんてそうありません。最初に振り向いてもらうべきは地元なのです。実際、大手小売り店のバイヤーなどは「地元でちゃんと売れているかをまず確認する」くらいですから。

この結果、蔵に隣接する直営店の売り上げは、2年前の月20万円程度から、現在では月90万円ほどに急上昇。社としての売上高も、2年で1.5倍に跳ね上がりました。

その間、従業員のリストラは一切しなかったと聞きました。仕事量が増えるので古い従業員からの抵抗もあったらしいのですが、「地域に評価されずに、全国で売れるはずがない。そのための仕事だ」と説得し続けたそうです。

 

201711_hatawoageru-02

 

 

普通酒を「最高の製法」で

続いて訪れたのは、弥彦酒造です。1838年に弥彦村で創業した日本酒の蔵。ここも代々、家業として息づいてきた一軒です。

約20年前、蔵の経営が傾き、新潟市内に本社のある運輸会社のグループが資本を投入しました。その経緯の中で、蔵に送り込まれたのが、当時、運輸会社グループの商社社員であった大井源一郎さんでした。30歳になるかどうかという年齢、しかも日本酒づくりにも、弥彦村にも無縁だった人生。

酒蔵というのは、その地域の文化に根差した存在です。弥彦酒造は、あの弥彦神社の御神酒蔵でもありますから、なおさらでしょう。

大井さんはまず何をしたのか。

「住民票を移して、弥彦に住みましたね。退路を断たねば、と」

そして、神社の氏子青年会、商工会青年部などにすぐさま参加し、ひたすら汗を流したと聞きました。確かに、古い村の文化に入っていくには、それくらいしか方策はありませんね。

出向当時は、営業課長の肩書だったのですが、現在では専務取締役であり、かつ、日本酒の醸造責任者でもあります。酒づくりの素人だったんですよね?

「まずは、蔵の中でも下働きに徹しました。その上で出向4年目に腹をくくったんです」

当時、全国的な地酒ブームが終焉し、いよいよ日本酒業界の行く末が危うくなってきました。この時期に大井さんは、この蔵の組織改革に乗り出し、同時に現場の責任者となります。そこから5年間は外部から杜氏(酒づくりの責任者)を招聘しますが、その後は自らが酒を醸す体制に変更。5年の間に、酒づくりをゼロから懸命に学んだといいます。

どんな酒を目指し始めたのか。

「いい酒というのではダメ。すごい酒にならないと」

具体的には、低価格の普通酒にも、大吟醸並みに手の込んだ製法を採用することに踏み切りました。

古株の従業員からは、「そこまでやらなくてもいいでしょう」とたしなめられたそうですが、「そこまでやらないと、すごい酒は醸せない」と、自身の方針を貫きました。

最終的に、蔵には若い従業員だけが残ったそうです。まあそれは必然の結果だったでしょうね。そして若い従業員のほぼ全員が酒づくりを学び、この小さな蔵の中で、いわばオールラウンドプレーヤーとして仕事に従事しています。

 

越後味噌醸造と弥彦酒造は、商品づくりで協業している。『やひこじぇらーと』の袖ふり味噌味は280円(税込み)。越後味噌醸造がみそを提供し、弥彦酒造が製造

越後味噌醸造と弥彦酒造は、商品づくりで協業している。『やひこじぇらーと』の袖ふり味噌味は280円(税込み)。越後味噌醸造がみそを提供し、弥彦酒造が製造

 

 

売り上げ減であっても…

今の弥彦酒造が醸す酒は、素朴ながら存在感の高い味わいです。料理を引き立てつつ、杯も進む感じで、言うなれば、技の確かな「助演男優賞」ものといった印象。

弥彦酒造の売上高は7000万円程度で、4年前に5000万円ほどだったのを思えば上昇基調です。ただし、大井さんが蔵に入る以前には1億円を超えていた時期もあったといいますから、完全復活ではない。でも、これは織り込み済みなのだとも、大井さんは話します。

「問屋との取引を切ったんです。酒の扱いがあまりに雑なところが多かったので、これでは……と」

問屋を切れば、短期的には売上高は減少します。それでも決断したということですね。

弥彦酒造の酒を理解する各地の酒販店に大井さんが自ら出向くスタイルを、現在は取っています。

おそらく向こう数年で、その努力が実り、さらに筋肉質な経営体制を築くのではないでしょうか。

 

 

 

PROFILE
著者画像
北村 森
Mori Kitamura
1966年富山県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。「日経トレンディ」編集長を経て2008年に独立。製品・サービスの評価、消費トレンドの分析を専門領域とする一方で、数々の地域おこしプロジェクトにも参画する。その他、日本経済新聞社やANAとの協業、特許庁地域団体商標海外展開支援事業技術審査委員など。サイバー大学IT総合学部教授(商品企画論)。