洋の東西を問わず、1本の酒には物語が付きもの。今回ご紹介するのは、国内で生まれたシングルモルトウイスキーです。
2016年6月、富山県の若鶴酒造が、55年物のシングルモルトを限定155本発売すると発表しました。それが『三郎丸1960』です。CASK(カスク) STRENGTH(ストレングス)とありますから、たる出しそのままです。加水もしていない。半世紀以上の長い年月を経て、アルコール度数は47度と、ほどよいものになっているそうです。
値段は、700mlで55万円(税別)です。価格だけ見ると、「ウイスキー1本に55万円!?」と思われるかもしれませんが、55年物のウイスキーとしては、かなり安いともいえます。商売っ気とは別の次元で売り出す―。そのような同社の狙いがそこから想像できます。
7月に、先行して50本を販売したところ、初日の段階ですぐに50人を突破。半月で100人を優に超える購入希望者があったそうです。
55年物のシングルモルトというのは、世界的にも極めて希少な存在です。どんな経緯でこの1本が生まれたのか、取材しました。
始まりは、強みの発掘
2015年。1人の社員が、「若鶴酒造の強みとは何なんだろう」と思い立ち、古くから残る社内資料にくまなく目を通し、また蔵の中を隅から隅まで歩き回ったそうです。
すると、ある発見がありました。帳簿の上で、確かに55年物のウイスキーだるが存在している。そして蔵の中に、それはあった。1960年のモルト原酒でした。
口にしてみると、圧倒的な香り。そして、時を長く経たことがたちどころに感じられる、複雑な味わい。まろやかでうまい。ボトル155本分は取れそうなことも確認できました。
ここに、大事なポイントが1つあります。
社業を発展させる手立ては、それこそさまざまです。全くの新規事業に打って出る方策も取り得ます。ただ、いろいろな企業を取材してきた中で、私が実感しているのは、「急ごしらえ」「必然性なし」の事業は、あまりうまく事が運ばないという傾向です。
若鶴酒造と全く異業種の、ある地方企業で耳にした言葉。「飛び石は打たない」。あらぬ方向に手を広げると、社員ばかりか、消費者も付いていけなくなるという教訓ですね。石を隣り合うように打っていけば、着実に、また、蓄積したノウハウを生かして成果を上げられる……。
私がこの話を聞いた企業は、ジュースにするニンジンのネット販売で成功を収めているのですが、ニンジンの次はジュースに使うリンゴとレモン、次にジュースを作るためのスロージューサーと順を追って、かつ、商品が隣り合いながら商材を広げていく格好で展開した結果、消費者が付いてきたと聞きました。
話を戻します。企業の強みとは、その足元にあるというのが私の考えです。若鶴酒造のケースでも、あらためて強みを見いだすために、まず足元に光を当てたからこそ、55年物のたるを再発見し、それを生かす戦術を取れたのではないでしょうか。
家訓に忠実になる
若鶴酒造は1862(文久2)年から日本酒造りに携わってきた蔵であります。
第2次世界大戦後のこと。戦後のコメ不足に見舞われる中、同社は蒸留酒造りに乗り出す決断をします。この時期、同じような考えに至った蔵は少なくないようです。コメ不足のために、日本酒の生産量が、最盛期の10分の1にまで落ち込んでおり、多くの酒造が蔵としての存続の危機であったといいます。
発酵に詳しい技師を迎え入れて研究を重ね、1952年、ウイスキーの製造免許を取得。早速、設備投資に踏み切りました。
ところが、翌53年、肝心の蒸留棟が火災に遭います。製造設備はほとんど焼け落ち、ウイスキーづくりのプロジェクトは、ゼロの状態に戻ってしまいました。
さあここで、経営陣はどのような判断を下したのか。
「逆境のときこそ、投資をする」。これは若鶴酒造の経営家の家訓だそうです。家訓に忠実であること、それしか頭になかったのでした。フランス製の最新式の蒸留器を思い切って導入し、ウイスキー造りに再び携わり始めました。
危機を乗り越え
話を聞くと、そこにはもう1つ、思いがあったようです。蔵が火災で大変な事態となった折、地元に住む多くの住民たちが素早く駆け付け、消火支援や復旧作業を手弁当で助けてくれた。その恩に報いるためには、「もう一度ウイスキー造りをせねば」という気持ちを強く抱いたのだとか。
こうして完成した『サンシャインウイスキー』と名付けられた商品は、生産量こそ多くはありませんが、かなりスモーキーな味わいがあり、愛好家の間で根強い人気となりました。
このウイスキーは、当時の等級でいいますと、安価な「2級」でした。しかしながら、モルト原酒の比率を酒税法で認められるぎりぎりまで高めていたこともあって、その味が評価されたのです。
1980年代前半には「地ウイスキー」がちょっとしたブームになっています。若鶴酒造のウイスキーも、メディアでしばしば取り上げられました。
しかし1989年の酒税法改正により、全国各地で造られていた地ウイスキーの生産量は、実に94%も減少するという、文字通り壊滅的な事態を迎えました。地ウイスキーのほとんどは、かつての2級であり、改正後には価格面における優位性が消えてしまったためです。
ただ、若鶴酒造のウイスキーは、先につづったように、もともと酒税法ぎりぎりの線まで贅沢(ぜいたく)にモルトウイスキーを使っていたこともあって、固定ファンがちゃんと付いていました。それがあって、どうにか生き延びられたのです。
地方同士の連携目指す
若鶴酒造にとっては小さな話かもしれませんが、ラッキーとしか言えないことがありました。
1980年代の地ウイスキーブームの際、普通に考えれば1960年に仕込んだたるが使われても不思議ではなかった。20年ちょっとの時を経て、きっとその段階でもいい味だったことでしょう。なのに、手付かずで残っていた。
「おおらかな時代だったのでしょうね。これは本当に偶然の幸運としか言いようがありません」と担当者は話します。
もし1980年代にたるが開けられていたなら、他の原酒と混ぜるブレンデッドウイスキーとして使われていたでしょう。今回のように、たる出しのシングルモルトで提供されることはなかったはずです。
地ウイスキーブームの間も、たるの中で眠り続け、酒税法改正の後に襲われた地ウイスキーの氷河期にも難を逃れた。『三郎丸1960』とは、そんな存在なのです。
だから私は思うのです。この商品は、一体何なのか……。もちろんウイスキーであることは間違いない。でも私は、この商品は「時間」なのではないかと思うのです。その「時間」を体の中に収めるために、人は大金を払う。
取材で訪れた日、最後にこんな話を聞きました。
「ジャパニーズウイスキーの世界を育てるために、日本各地の蒸留所と連携してウイスキー造りの悩みも喜びも共有できる土台をつくりたい」
素晴らしい考えだと感じます。深みも奥行きもあるウイスキー文化を育むには、地域を超えた協力体制はとても重要ですからね。