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コラム 2025.05.30

Vol.114 課題解決、取り組みの「終焉(しゅうえん)」 北村 森

紋別市「紋別タッチ」
紋別をトンボ返りする航空マニアを、地元の人が毎日、熱烈に歓待していた(左)。2025年3月31日に事業は完全終了。紋別空港に掲示されていたボードは撤去された(右)

 

稀有けうな成功例

 

2022年12月号で、私は「紋別タッチ」と名付けられた地域発のムーブメントの話をお伝えしました。

 

オホーツク海に面する北海道の紋別空港には、1日わずか1便(1往復)しか就航していません。それはANA(全日本空輸)の羽田〜紋別便です。

 

コロナ禍に見舞われた2020年度、この紋別便の搭乗者数が激減。前年度の3分の1となり、搭乗率は30%程度。これは路線廃止の危機です。

 

鉄路のない紋別にとって、これは、地域医療崩壊の可能性を意味します。紋別の医療を支える何人もの医師は東京から空路で入っていたからです。この危機に、地元で暮らす一人の女性が動きました。

 

2021年の春先、田中夕貴氏は航空マニアが集うSNSで必死に語りかけます。「紋別の医療危機を救ってほしい。紋別便に一度で良いから搭乗してもらいたい」と。

 

これに航空マニアが応えました。ANAの搭乗ポイントを稼ぐためだけに羽田と紋別をトンボ返り。1日1往復しかない空港ですから、乗ってきた航空機にまた搭乗するという旅程です。紋別滞在はわずか40分間。マニアたちは紋別タッチと呼び、こぞって実践しました。

 

紋別タッチがムーブメント化した2021年度の搭乗者数は、コロナ禍のさなかにもかかわらず急回復。3万7374人で搭乗率は37%台にまで復調しました。このうち紋別タッチ客は約1万人にも上ったといいますから、相当な効果です。

 

田中氏はマニアに懇願しただけではなかった。空港のカフェや土産物店のスタッフに紋別タッチ客の歓待を依頼、また紋別市や紋別観光振興公社にも働きかけ、紋別タッチ客への記念ステッカーやスタンプカードの配布、そして紋別タッチ専用カウンターの設置が決まりました。カウンターの奥の壁には、それぞれのマニアのタッチ回数をネームプレートとともに掲示する大型ボードも貼り出されました。そして田中氏もまた動きました。2021年夏から毎日欠かさず、航空便が到着する昼どきに職場を抜け出して空港に向かい、2階の送迎デッキに立って紋別タッチ客を出迎え、40分後には送迎デッキから見送りました。

 

ここまで徹底したからこそ、紋別タッチは一大ムーブメントとなり、危機下での地域発共創の事例として全国からの注目を浴びました。

 

突然の取り組み縮小通告

 

ところが、2023年2月、紋別観光振興公社は、取り組みの大幅縮小を通告します。専用カウンターの廃止、大型ボードの撤去、そして記念ステッカー配布も今後は未定としました。

 

ここまで盛り上がり、マニアたちが自ら進んで紋別の逆境を救ってくれていたのになぜか。公社で紋別タッチ推進を担当していた副社長が、まったく別件の不祥事で逮捕されたのを受けたからと聞きます。公社の当時の社長は「これからは、地域のファンを集客したい」と話していました。突然はしごを外された格好となり、マニアの大半の心は紋別から離れました。

 

それでも、空港の現場は諦めなかった。2023年2月以降も、空港事務所で記念ステッカーを配り、撤去するはずだった大型ボードは空港2階で掲示を続けました。田中氏も友人たちと一緒に送迎デッキに立ちました。

 

紋別タッチは、いっときの熱気や人数ほどではないにしても、継続するマニアが支え続けました。

 

しかし、2025年に入り、公社から事業推進を引き継いでいた紋別市が、3月31日で紋別タッチ事業を終了させると発表しました。記念ステッカーは完全廃止、粘り腰で掲示されていた大型ボードが今度こそ撤去されることとなりました。

 

官民連携で奮闘して、全国から航空マニアが押し寄せたという、まれな共創が終わりを告げたのです。

 

未来への問い

 

紋別タッチ事業の最終日、3月31日に、私は紋別を訪れました。この共創事例の終焉しゅうえんをこの目で確かめたかったからでした。

 

最終日、紋別タッチ客はゼロでした。市の決定への反発がマニアたちにあったからではないかと私は推察します。そして翌4月1日の朝、大型ボードは空港職員の手で撤去されました。ボードを一気に剥がしておしまいかと予想していたら、マニアのイニシャルや本名が記されたおびただしい人数分のネームプレートを、職員たちが1枚ずつ時間をかけて取り外していたのが印象的でした。「記念に持ち帰りたいというマニアのために、当面は取っておきたいので」と職員が話してくれました。

 

紋別タッチの終焉について、田中氏は言います。

 

「閑散期にも航空便の空席を埋めてくれたのが、紋別タッチを実践してくれた多くの航空マニアでした。紋別にとって貴重な存在でした。それを完全に手放して良かったのでしょうか」

 

紋別便の搭乗者数は2024年度、5年ぶりに7万人台となり、過去2番目の実績となっています。市にすれば、紋別タッチの役割は終わったと判断したのかもしれません。でも、この地域がもし再び、何かの危機に見舞われたとしたら、そのとき航空マニアたちはもう救ってくれないでしょう。

 

1円も入らないからこそ

 

田中氏の別の言葉もまた思い出されます。田中氏は自発的にマニアに呼びかけ、また、毎日のように空港の送迎デッキに立ち続けていました。そしていったんは紋別タッチを大成功に導いています。その成功要因はどこにあったのでしょうか?

 

「私自身に1円も入ってこないからこそ、航空マニアの皆さんも空港関係者も共感を寄せて動いてくれたのだと思っています」(田中氏)

 

田中氏は紋別セントラルホテルの常務を務めています。そんな田中氏が紋別タッチの立役者となったわけですが、考えてみれば紋別タッチ客は現地に宿泊せず、日帰りでトンボ返りするわけです。つまり、田中氏のホテルにはお金が落ちない。それでも田中氏は地域のためにひと肌脱ぎ、マニアたちが呼応した。

 

紋別セントラルホテルの社長は、田中氏の弟さんです。最初は毎日昼休みに姿を消す田中氏をいぶかしく感じていたらしい。でもある日、空港で二人が鉢合わせした後、社長は田中氏の奮闘を応援してくれたといいます。

 

地元に根付くホテルの常務である田中氏が、本業の傍らで地元のためという一心で動いた。だからこそ、周囲が心揺さぶられたのでしょう。

 

私個人の思いを最後にお伝えします。これまでの活動が地域に根付いていたことを考えると、その価値を失うことは非常にもったいないと感じます。その精神や活動を継続できる可能性を模索すべく、地域住民や企業、行政が協力してほしい。再構築する道がこれで消えたとは思いません。

 

市や公社に期待したいのは、今からでも航空マニアたちとの関係を修復する努力を惜しまない姿勢です。紋別タッチの役目は終わったのだと片付けずに、もし一歩を踏み出せたら、新しいモデルを再びこの地域で生み出せるかもしれません。

PROFILE
著者画像
北村 森
Mori Kitamura
1966 年富山県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。「日経トレンディ」編集長を経て2008年に独立。
製品・サービスの評価、消費トレンドの分析を専門領域とする一方で、数々の地域おこしプロジェクトにも参画する。
日本経済新聞社やANAとの協業のほか、経済産業省や特許庁などの委員を歴任。サイバー大学IT総合学部教授(商品企画論)、秋田大学客員教授。