コロナ禍の地方企業
新型コロナウイルスの感染拡大で、2020年以降、人の動きに制約がかかっています。大都市圏から人を招きづらい地方の観光業や商業は苦しい状況が続いています。
しかし、そうした中、このような時期だからこそ「他ならぬ地元の人に、住んでいる街の魅力を感じてもらう機会にしたい」と果敢に動く企業があります。
中川政七商店といえば、織物などの工芸品の製造小売りを手掛け、今では全国各地の空港や、大都市圏の複合ビルなどに計60店舗もの拠点を有する企業です。もともとは、奈良に根付く麻織物を扱っていた老舗で、創業300年を超える企業です。そして本社は現在も奈良市にある。
同市に「ならまち」という地区があります。ここは細い路地の左右に古い町並みが連なる一角なのですが、そこに同社は2021年4月、複合商業施設をオープンさせる予定です。その名を「鹿猿狐ビルヂング」と言います。同社が複合商業施設を自ら手掛けるのは初めてのこと。
3階建てで、周りの雰囲気に合わせるように瓦屋根とガラス窓をうまくデザインに生かした外観です。建築中の建物を見ましたが、なかなかに風情がありました。
職場と自宅以外の空間
中川政七商店の主力商品は、麻を使ったシャツやパンツなどの衣料品です。他にも、バッグや財布などの小物や食器など、さまざまな商品を取り扱っています。
今回の鹿猿狐ビルヂングには大きく4つの機能があるようです。1つ目は、奈良をはじめとする職人が作った工芸品や食品を扱うゾーン。2つ目は、複数の飲食店。3つ目は、昔の織り機に触れながら織物体験ができるような趣向も用意するそうです。
こう言ってはなんですが、そうした要素までは想像の範囲内でした。私がより注目したのはここからです。
そもそも全国の名だたる空港や観光名所などに60もの直営店をすでに展開している老舗企業が、なぜ地元の奈良に同社初めてとなる複合商業施設を造ろうとしたのか。
中川政七商店から話を聞いて、「ああ、そういうことか」と理解できました。
まず、同社社長の千石あや氏が口にしたのは「いい街とは、職場と自宅以外にどれだけ魅力的なところがあるかどうか」という指摘でした。この鹿猿狐ビルヂングが「その一助になれば」という思いだそうです。
確かに、この言葉には重みがありますね。職場と自宅以外の第3の場所がある街かどうかは、とても大切な要素に思えます。
ただ、物販や飲食の提供をもって、第3の場所とし得るかどうか。それ自体にはさほど新味はないかもしれません。同社は鹿猿狐ビルヂングを使って、さらに1つの挑戦を果たしたいというのです。
それがこの複合商業施設の4つ目の機能。3階フロアを「コワーキングスペース」とするそうです。
商業施設にコワーキングスペース?なぜなのでしょう。
同社によると、小さくても新しいビジネスを始めようという思いを持った人を応援したいという試みだといいます。そこには明確な理由と狙いがあるようです。
ここから街を元気に
中川政七商店の会長、中川政七氏はこう言いました。
「工芸と街づくりには大事な関係がある」
どういうことか。工芸の世界が現代で元気に復活を遂げれば、その産地自体も元気になる。だからこそ、コワーキングスペースを拠点にしながら、工芸の世界、あるいはそれ以外の産業の世界と、新たなビジネスに臨みたい人を結び付けよう、そしてそこから街を元気にしよう。さらには、奈良で培ったそのモデルを他の地域の人たちにも伝えていこうというのです。
「やる気のある人がビジネスを地元で立ち上げるための最初の一歩を踏み出す勇気を、ここで得てほしい」。中川氏はこうも話します。
どうしてまた、一私企業がそこまでの構想を形にしようとしているのか。中川氏は「創業300年を迎えた2016年が1つのきっかけだった」と振り返ります。当時、彼は「工芸の復活」を明確な大方針として口にしていました。「そうしたテーマを掲げたからには、自らが動くしかない」という思いが、今回のコワーキングスペースの設置、そして、このスペースを舞台に工芸とビジネスをつなげようという決断に結び付いたそうです。
ここまでの話で、この複合商業施設の狙いはよく理解できましたが、私には同社の取り組みで1つ思い出した話があります。
この指止まれ、の精神
2011年、同社は新しい靴下の製造小売りに乗り出します。その名称は「2&9(ニトキュー)」。29とは奈良の県番号であり、それを商品のシリーズ名に付けた格好です。この「2&9」を企画する発端が何だったか、以前に取材した記憶が戻ってきました。
もともと奈良は靴下の一大生産地です。もう100年以上の歴史があるそう。ところが下請け生産の小さな工場が大半なこともあって、その事実はほとんど知られていませんでした。しかも、どの工場も経営は苦しかった。靴下づくりの実力はべらぼうなのに、です。また、私の知る限り、奈良の業界団体は、そうした状況下にあっても有効な手立てを講じてこなかった。
そこで立ち上がったのが中川政七商店です。同社は、デザイン以上に履き心地へ着目し、奈良で自前の靴下ブランドをつくろうと決断しました。例えば、「しめつけないくつした」「あたたかいくつした」「疲れにくいくつした」といった感じです。
1足税込み2000円前後と高価なのに、テスト販売に踏み切ったところ相次いで完売。今では同社の基幹商品の1つとなっています。
その「2&9」の生産に当たって、同社は「この指止まれ」といった姿勢で、製造を担う工場を地元から募りました。やる気のある町工場に自ら手を上げてもらおうとしたのです。すると、果敢に手を上げた工場が複数現れました。
工場の職人たちは、東京などの大都市で自分たちの靴下がヒットしているのを見て感激したそうです。これまでの下請け体制では、どこで売られているのが不明だったのが、明快になったわけですから。
話を戻します。鹿猿狐ビルヂングでの挑戦は、まさに「この指止まれ」を志向する形態ですね。ここから新たに何が生まれるか、私はとても注目しています。