その他 2020.09.30

Vol.61 狙う「あなた」のリアリティー:トネ製作所

 

 

 

 

トネ製作所「ときここち」
販売価格は4290円(税込み)。シンプルな形状ながら、白身を切れやすくしたり、握力の弱い方でも握りやすくしたり、工夫が凝らされている

 

 

シンプルな話でいい

 

消費者向けの商品を開発する上でよくいわれるのは、「ターゲットを明確にせよ」という話です。

 

狙う消費者層を絞るために、年代・性別・世帯所得・家族構成などを想定すべきというわけですが、正直なところ「もっとシンプルに考えていいのでは」と私は思っています。このような手法で訴求したい消費者を細かく区分しながら想定していく作業そのものが、少々古びた考え方ではないかとすら感じます。

 

もうここは、ずっと単純でいい。「どんな『あなた』を狙うのか」。これに尽きると思います。むしろその方が、商品開発過程でリアリティーがより出るでしょうし、ぶれることも迷うこともない気がするのです。

 

過去にこの連載で取り上げた商品にも事例があります。例えば、魚を楽にさばける刃物である「サカナイフ」は、「魚をさばきたいけれど苦手意識のある『あなた』に」と狙いを単純明快に定めて大ヒットしました(本誌2019年8月号)。あまたのマーケティング理論に忠実になるばかりが正解とは限らないというわけです。

 

で、今回の商品です。狙いどころは本当にごくごくシンプル。「卵白が苦手な『あなた』」、それがこの商品の狙う消費者層です。

 

 

町工場の「心の支え」

 

いったいどんな商品か。それがですね、生卵を溶きほぐす目的だけに使えるキッチン小物なのです。なのに値段は4290円(税込み)もする。こんな商品が売れているのかといえば、売れているのです。発売直後である2019年の夏、東京都内の百貨店で催事に出店したら、わずか6日間の期間だったのに315本がさばけたそうです。そして2020年に入ってもさらに伸びを見せている。

 

商品名は「ときここち」といいます。作ったのは東京・荒川区のトネ製作所です。

 

1961年創業である同社は、もともと精密板金加工を得意領域としている町工場。例えば、JR東日本の北陸新幹線の車両の扉を吊っている金具や、駅のホームにある防護柵の機構部分などを手掛けてきました。代表取締役の利根通氏は笑います。「要するに、うちの製品は『見えないところに付いている』」

 

そんな同社が、初めて消費者の目に見える自社ブランド商品作りに挑みました。それはなぜ?

 

「どんな時代の波に襲われても、その存在が会社にとって心の支えになるから」(利根氏)。その思い、分かりますね。たとえ売り上げ比率は小さくとも、自社ブランド商品の存在は大きいものとなるということです。事業を存続させていく上でのよりどころにもなり得ます。

 

同社は10年ほど前までは年間の売上高が10億円になることもあったそうですが、その後は年々減少。2019年は3億円強でした。そういった状況下で、思い切って自社ブランド第1号を世に出したということです。

 

 

 

 

 

 

卵を溶く道具を作った理由

 

さあ、ここからが本題です。トネ製作所はどうしてまた、自社ブランド初の商品を、生卵を溶くためのキッチン小物としたのでしょうか。かなりとっぴとも言えます。

 

利根氏に言わせると、理由は単純明快だったのだそう。

 

「私の妻が、卵白嫌いだった」

 

それだけなのですか!

 

「妻は、例えば卵焼きに白身部分が少しでも残っていたら、もう箸をつけないんです」(利根氏)

 

利根氏は「だったら、卵白がしっかりと卵黄に溶け込む=美しく混ざり切る道具を作ればいい」と考えた。そして、結果として商品化は成就して、しかもここからが大事なのですが、利根氏の奥さまと同じような思いを抱いていた消費者は相応に存在したという話ですね。4290円(税込み)もするのに売れているわけですから。

 

先ほど私は「商品開発では時として、『狙うあなた』をシンプルに考えていい」と申し上げましたが、つまりこう言う話なのです。

 

実際に使ってみると、この商品の実力はすぐに理解できます。ボウルに生卵を入れて、この「ときここち」で20秒ほどかき混ぜると、見事なまでにきれいな状態で卵白と卵黄が混ざり合います。

 

なぜなのかを利根氏に尋ねたら、「先端にある、0.7mmの円状の線部分で、卵白を切っているんですよ」とのことでした。

 

箸で混ぜても、泡立て器を使っても、つるんとした卵白が器の中で逃げ回ってしまって、うまく混ざらないものですが、この「ときここち」は卵白をしっかりとつかまえて、そして切っているというわけです。

 

 

 

 

 

 

開発コストは最小限

 

完成するまでの過程でも、奥さまの言葉が役に立ったそうです。

 

卵白を切るという発想は初期の段階で得られていたといいますが、そこから試作を繰り返しました。完成版まで四つの試作品がボツになったと聞きました。

 

「試作品を妻に見せるたびに“瞬殺”だったんですよ」と利根氏は振り返ります。試作1号は形状がぶっきらぼうに過ぎる。試作2号は「握る手が痛い」、3号は「卵と指の位置が近すぎる」、4号は「上にある四つの穴にどんな意味があるのか」……と。

 

卵白を切る原理を見つけながら、そこから商品版を完成させるまで1年はかかったそうです。完成版である第5号を奥さまに見せたとき、「ようやく、にっこりと微笑んでくれました」と利根氏は話します。

 

最後に、ここがもしかするとまた重要な部分かもしれません。

 

自社ブランド第1号の「ときここち」は、本体の長さが15cm弱。触ってみるとすぐ分かるのですが、これ、ステンレスの一枚板からの成型なのです。つまり、溶接加工をしていない。利根氏に言わせると、「その方が経年劣化に強いから、長く使えるのです」とのこと。それにしても、美しい形をしています。

 

相当な開発コストをかけているのかと思いきや、実はそうではないらしい。新規の投資はほとんどなかったようなのです。今ある設備を使えば、商品の形まで持っていくことができたそうで、あとは外箱の製作依頼を外部にかけるなどといった部分が残るだけ。

 

「そうなんです。うちの持っている技術や設備でほぼ全て完遂できる商品なわけです。この点は大きかったですね」(利根氏)

 

職人さんの技術を含め、すでにあるものを活用した商品開発だったから、ここまで思い切れたのでしょう。

 

「あなた」を明確に見定め、足元に存在するものを生かして商品を作り上げた。熱意と冷静さ、その双方が折り重なった結果の快作であると私は思います。

 

 

 

 

 

PROFILE
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北村 森
Mori Kitamura
1966年富山県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。「日経トレンディ」編集長を経て2008年に独立。製品・サービスの評価、消費トレンドの分析を専門領域とする一方で、数々の地域おこしプロジェクトにも参画する。その他、日本経済新聞社やANAとの協業、特許庁地域団体商標海外展開支援事業技術審査委員など。サイバー大学IT総合学部教授(商品企画論)。