2017年12月号
家業から解放されて
梶原 「そしてその後?」
五味 「とりあえず東京に出て、大学に入ってキャンパスライフをエンジョイしようと思いました。性みたいなもので、当時、バイオがしばしば話題になる時代で、育った家が醸造関係だから、後を継ぐ、継がないに関係なく、勉強してみたいなって言う気持ちは湧いてきてました」
梶原 「血がうずいたんだ」
五味 「というほどでもないんですけどね。で、バイオで人気の東京農業大学へ行きたいなあと思った。ところが、入試の倍率がとんでもないことになっていた。こりゃ難しいなと思ったら『確か、酒、みそ、しょうゆなど醸造関係者の子弟には〈後継ぎ枠〉みたいな物があって、お前も対象になるらしいぞ』って教えてくれた人がいて。こんなチャンスを生かさない手はないと受験したら、なんと合格! うれしかったなあ」
梶原 「後継ぎ枠じゃなくて、本当は実力だったんじゃないの? で、それを機会に、お父さんの後を継いでみようかと?」
五味 「いや、バイオの研究者を目指すつもりで東京暮らしを満喫していた大学2 年の頃、父がケガをして、『人手が足りなくなったから少し手伝ってくれ』と急な知らせがありました。ごく短期間ですが、家の仕事をすることになったんです」
梶原 「東京暮らしに慣れた身には、家業はうんざりだった?」
五味 「それが、子どもの頃から身近だったしょうゆだの、みそだのが、大学に行ったことにより、全然別の角度から見えてきたんです。要するに、大学で勉強したことが、そこここに現実として存在する! と実感しました。先生が言っていたのはこれのことか、ってね」
五味 「卒論のテーマを『中小醸造企業の経営と実態』に決め、わが家みたいな会社の経営者を片っ端から訪問して『儲かりますか?やりがいありますか?おもしろいですか?』って聞いて回ったんです。その評判次第で、家業を継ぐか継がないか決めようと思ったんです」
梶原 「どうでした?」
五味 「いろいろでした。楽しそうなところもあれば、訪問したその日が廃業宣言の日だったところも。そんな中で一番影響を受けたのは、当時50歳ぐらいのおじさんでした。インパクトが強烈だったんです」
梶原 「?」
五味 「取材は東京・関東だけじゃなくて、中部、阪神、京都にも行きました。あらかじめ約束すると、皆さん駅まで迎えに来てくださったり。親切なんです。その人は、某駅前に、ものすごく変な車で迎えに来た『超ユニークなおっさん』でした。会社までの道々、冗談しか言わず、『醸造になんて興味なさそうだなあ』と思ったんですが」
梶原 「ですが?」
五味 「おじさん、工場に着いて、自分のみそ・しょうゆを前にした途端、10年ぶりに会った恋人を見るようないとおしそうなまなざしで醸造経営について語り始めたんです!この仕事は最高だ!!オレはなんて幸せ者なんだ!!!このおじさんの『醸造ラブ』を目の当たりにして、血が騒ぎました。この業界にはいろんな人がいる!意外に面白そうな世界なんだ!!と」
梶原 「卒論を書き終え、卒業と同時に家業に就いた?」
五味 「いえ、まだです。私の醸造への好奇心に歯止めが利かなくなって、海外のしょうゆ作りをぜひ体験したいと、タイの醸造会社に3年の約束で働かせてもらいました」
梶原 「ああ、タイもしょうゆ王国か、魚醤とか」
約束の3年を外地で過ごし、いよいよ、5代目(父)の下での本格的な修業が始まったようです。
五味さんは本業の傍ら、工場の敷地内に「食のものづくりワークスペース(多様なイベント拠点ビル)」を立ち上げ、東京でOL生活を満喫していた妹の洋子さんや、「発酵博士」として今や引っ張りだこの小倉ヒラクさんと一緒に、しょうゆ、みそなど発酵、麹をテーマにしたイベントや、ラジオ・テレビの出演と、県内外で大活躍です。
そして先の4月。めでたく明治元年創業「五味醤油」代表取締役に就任しました。「長男のお前が家業を継げ」とは一切口にしなかった先代も、さぞやお喜びのことでしょう。
「この仕事、見方を変えれば、こんなに楽しい」「こんなふうに楽しんでいる人がいる」「この仕事に期待を寄せる意外な人たちがいるんだ」仕事の本当の価値を見いだしたとき、息子や娘は、自ら「後継経営者」になることを目指すのかもしれませんね。
筆者プロフィール
梶原 しげる (かじわら しげる)
早稲田大学卒業後、文化放送に入社。20年のアナウンサー経験を経て、1992年からフリーとしてテレビ・ラジオ番組の司会を中心に活躍。49歳で東京成徳大学大学院心理学研究科に進学、心理学修士号取得。東京成徳大学経営学部講師(口頭表現トレーニング)、日本語検定審議委員も務める。
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梶原しげる著/新潮新書
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