2018年8月号
最初の1年は生活サイクルの違い、時間の流れるテンポの違いに戸惑い、「モヤモヤした気分」に襲われることもあったといいます。一番の原因はやっぱり「音楽仲間とばかを言い合って演奏する時間を持てないこと」。妻も、その両親もとってもよくしてくれましたが、大事にされればされるほど、なんだか「嫁いだ気分」にさせられたのが正直な気持ちだったそうです。
意外にも、モヤモヤが晴れるのに時間はかかりませんでした。周囲にあるワイナリーには同世代の同業者がたくさんいました。10年前、ちょうど山梨のワインが本格的に国内外で認知され始めた時期で、その担い手の中心が、まさに同世代だったのです。
同じような年回りの人たちが、競い合うようにそれぞれ工夫を凝らし、飛び切りのワインを世の中に送り出そう、新しい時代を切り開こうという意欲にあふれていました。若尾さんも急速に腕を上げていきました。
勝沼でワインを始めて2年たったところで、義理の父は彼に代表取締役を譲りました。伝統あるワイナリーの「3代目」を任されたのです。若い才能と力をどんどん後押しする気風が山梨のワイナリーを活気づけています。
そこへ、転機が訪れます。東京時代のライブで共演したミュージシャンがなんと山梨でロックバンドをやっていると風の便りに聞きました。「ワインをやりながら音楽もできるかもしれない!」
山梨に夫婦でUターンして3年ほどたったところで地元の仲間と新たにロックバンドを結成。若尾さんはトロンボーン奏者として参加し、いまや山梨・東京を中心に活発なライブ活動やアルバムづくりなどの音楽活動を展開しています。夏には八ヶ岳や富士山など、スケールの大きい大自然の中でのコンサートも予定されているようです。
もちろん、夏休みにはワイナリー巡りを楽しむ人も数多く訪れるそうで、本業も大忙し。
「奥さんから『ブドウを育てワインを造るのだって、クリエーティブな物づくりじゃない?』と言ってもらえなかったら、人生変わっていたんじゃないですか?」
そう若尾さんに聞いてみました。
「うーん、あの時は、なんだか乗せられたような気がしないでもなかったんですが、少なくともこんなに肉体的、精神的に健康でいられることはなかったでしょうね。ご飯もおいしいですし、子どももかわいいですし……あれからだいぶたって、カミさんにあの言葉のこと聞いたら『えー、そんなこと言ったっけ?』ってまあ、仮に幻聴だったとしてもありがたい言葉でしたね……」
冗談ぽく笑いながら言った若尾さんは、本当に幸せそうでした。
筆者プロフィール
梶原 しげる (かじわら ?しげる)
早稲田大学卒業後、文化放送に入社。20年のアナウンサー経験を経て、1992年からフリーとしてテレビ・ラジオ番組の司会を中心に活躍。49歳で東京成徳大学大学院心理学研究科に進学、心理学修士号取得。東京成徳大学経営学部講師(口頭表現トレーニング)、日本語検定審議委員も務める。
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不適切な日本語
梶原しげる著/新潮新書
821円(定価)