その他 2017.12.26

vol.28 どうしても欲しい人材

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2018年1月号

予期せぬ訪問者

そんなブログを見て「ぜひあなたに逢いたい」と、メールが来ました。「山梨でブドウ農家を営んでいる」と自称する人は、なんとカリフォルニアまでやって来たというのです。

「怪しいおじさんが声かけてきたんだけどどうしよう、と思ったんですが、せっかく来てくれたので」

結局、会うことにしました。

近々新たにワイナリーを立ち上げたいと語るその方を、彼女はワインで有名なナパ(2017 年秋、山火事で大変なことになった地域)周辺を案内。いくつかのワイナリーで一緒にワインも飲んだのですが、「おじさん」は、ワインのことはそっちのけでブドウ畑にばかり目を向けるのでした。

「畑を見ればこの畑の枝はいつ切ったのか、この木のこの部分は、いつこういう作業をしたからこういう状態になったか、全部言えるんですよ。この畑に何がまいてあるとか、土の感じがどうだとか。ブドウの全てを感じ取れる人だということはよく分かりました。ここまでブドウに詳しい人がいるとは、私にとって驚きで、ただ者じゃないという気配が感じられました」

ワイン造りはブドウ作り。ワイン造りは農作業ということを、カリフォルニアやヨーロッパで痛いほど思い知らされてきた斎藤さんにとって、その男性はもはや「怪しいおじさん」ではなくなっていったようです。

おじさんの決意

おじさんがあらためて、斎藤さんに告げました。

「私が新たに始めるワイナリーの醸造責任者はあなた以外に考えられない。住居も、車も、冷蔵庫も。全て用意して待っている。体一つで来てほしい」

まるで、新沼謙治が歌う懐かしの「嫁に来ないか」の最後の歌詞みたいです。ところがこれが、斎藤さんには「グッときた」のだそうです。大学と大学直属ワイナリーでの就労後、さらに研鑽を積むためフランス各地で汗を流したあと、彼女は文字通り体一つで山梨のおじさんの所に向かいました。

おじさんの言葉通り、住まいも車も、冷蔵庫も、そして親切な管理人さんや仲間たち、何より心強かったのは「おじさんの奥さん」の心からのもてなしだったようです。

そうそう、おじさんとは山梨のワイン業界では知らぬ者がいない、ブドウ作りの名人、現Kisvin Winary 荻原康弘社長のことでした。

実は山梨到着後、程なく斎藤さんのお腹に新しい命が宿っていることが分かりました。それはすなわち、ワイン造りに欠かせない農作業、醸造責任者に必須のテイスティングの、どちらもできないということです。さすがの斎藤さんも、慄きました。

「ひょっとして、採用取り消しか?」強気な斎藤さんとはいえ、不安がこみ上げました。ところがそれは全くの杞憂に終わったそうです。

報告を聞いた社長と奥さんの第一声が「おめでとう!! よかったね!!」だったからです。

梶原「とはいえ、実際のところ、仕事に支障は来さなかったんですか?」

斎藤「社長はじめスタッフ一同が、私の指示で何でもやるというものですから。醸造については、私がしっかり教えました。社長は、ブドウについてはともかく、特に、醸造に関わる分野についてはものすごく謙虚に私の話を聞いてくれるんです」

すぐにいつもの「強気の斎藤さん」が戻ったようです。

梶原「理解のある職場でよかったですねえ」

斎藤「ワインは、農業。農業は大昔から、男も女も、妊婦も、一家皆で働いた。いわば元祖“男女共同参画社会”なんです。産まれた子どもたちも、親が畑で仕事をするのを見ながら育つ。あの時のお腹の赤ん坊も、母親の働く姿を見ながらすくすく育って(今では)元気いっぱいの保育園児です」

息子さんも、ワイナリーも順調そのもののようです。

斎藤「そのうち、うちの子が小学生になって理科を習うとき、植物とか微生物とか発酵を学ぶ機会が出てくると思います。それをどういうふうに母親の仕事と結び付けたりするのか、とっても楽しみです」

「体一つで来てほしい」と説得した荻原社長。「グッときた」と応じた斎藤さん。

「有為な人材を得たい時に使ってみるか」と、密かに手帳のどこかに書いておくのも悪くなさそうです。


筆者プロフィール
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梶原 しげる (かじわら ?しげる)

早稲田大学卒業後、文化放送に入社。20年のアナウンサー経験を経て、1992年からフリーとしてテレビ・ラジオ番組の司会を中心に活躍。49歳で東京成徳大学大学院心理学研究科に進学、心理学修士号取得。東京成徳大学経営学部講師(口頭表現トレーニング)、日本語検定審議委員も務める。

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