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コラム
有識者連載
各分野の有識者や、さまざまな領域の専門家による連載です。
コラム 2021.07.01

Vol.21 数値化しにくい領域の価値を探る大切さ

ビジネスにおいて、数値化しにくい事柄は疎まれたり、距離を取られたりする。確かに数値化できる事柄は相手に説明しやすく、処理するにも扱いやすいが、数字は対象の一部しか表していないことを忘れてはならない。

    ビジネスは数値化しにくい領域に手を焼いている   ビジネスの世界でマーケティングという言葉は頻繁に使われる。しかし、それぞれが違ったレベルで話し、趣旨が噛み合っていないことも多い。例えば、マーケティングを「売るための手練手管である」とか「顧客のニーズを探ることである」と大きな声で話す人がいる一方で、「企業と消費者が互いに手を携えて何かを新しく生み出すことだ」と強調する人もいる。   実際のところ、それらは全て正しい。適用するタイミングと場がそれぞれに問われているのだ。   さて、マーケティングに限らず、およそ数値化できるセオリーは誰もが納得しやすい。他方、数値化しにくいがテーマとして重要な領域を、数値化できることとどう共存させるか。これはビジネスの課題である。さらに言うと、そもそも数値以外の領域を支持する人は少ない。   数値以外の領域を間違っていると思って支持しないのではない。正しいのだろうと思いながらも、手法が不明解で、結果も可視化されにくいから腰が引けるのだ。ある程度時間を経て「やっぱり、あの方向で良かったのだね」と評価される可能性があると薄々感じていても、どうしても後回しになる。   今回は、服飾史家の中野香織氏と私が主宰する、新しいラグジュアリーの意味を探る研究会のメンバーである本條晴一郎氏を紹介したい。本條氏は静岡大学学術院工学領域事業開発マネジメント系列の准教授である。専門はマーケティング、製品開発、消費者行動論だ。物理学と経営学の両方で博士号を持っている。彼は数値の世界を熟知するからこそ、数値化しにくい領域の研究に軸足を置いている。また、両方を相手にする時には公平な態度を取る。   2021年3月、研究会において「ガンディー研究から見るラグジュアリー」と題する内容を発表していただいた。本條氏は数理科学の世界から経営学に移る間に、脱植民地化の研究をしていた。脱植民地化はコミュニケーションの極端な形であり、研究対象として有用だという。今回はその発表の一部と、別の機会に本條氏へインタビューした内容を紹介したい。   新しいラグジュアリーが新しい時代をつくる基礎的なコンセプトになるであろうことが予見されるはずだ。     静岡大学 学術院工学領域 事業開発マネジメント系列工学部(大学院 総合科学技術研究科 工学専攻)准教授 本條 晴一郎 氏       ガンディーに影響を与えた英国の思想家ラスキン     インドの独立運動を主導した思想家・運動家として知られるモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(マハトマ・ガンディー、1869-1948年)は、1888年に英国へ留学し、弁護士資格を取得。1893年、南アフリカへ渡った際に人種差別を受けたことをきっかけに、22年間にわたり南アフリカにおいて人種差別反対の活動を続けた。活動が実を結び、1914年には南アフリカ政府がインド人移民の要求を認める救済法を施行した。   1915年にインドへ帰国したガンディーは、英国から独立するための非暴力・不服従運動を続け、1948年、ヒンドゥー教徒により暗殺されて78歳で人生の幕を閉じた(インドの独立は1947年。ジャワハルラール・ネルーが初代首相)。   ガンディーは英国の思想家であるジョン・ラスキン(1819-1900年)の著書に感銘を受けていた。南アフリカ滞在中にラスキンの著書『この最後の者にも』に感化され、1904年に農園を開設している。   本條氏は「労働によって生きること、すなわち農夫や職人の生活は、生きるに値する。そうラスキンから学んだガンディーは農園を開きました」と解説する。   ラスキンは、本連載で新しいラグジュアリーのモデルとして想定しているウィリアム・モリスの思想的先駆者だ。モリスは19世紀の後半、英国で反産業革命のアーツアンドクラフツ運動を行い、職人技の尊重や生活の質を問うた。そのモリスが師事したのがラスキンなのである。   ラスキンの影響を受けた文学者は、ロシアのレフ・トルストイ、フランスのマルセル・プルーストなど数多くいる。この連載でも何度か紹介しているイタリアの高級ファッション企業、ブルネロ・クチネリの創設者であるクチネリ氏も、ラスキンの著作には学ぶべき点が多いと自著に書いている。   ラスキンの考え方には、どのような特徴があるのだろうか。本條氏は次の点を挙げる。   ラスキンはアダム・スミス(1723-1790年)などが唱えてきた古典派経済学の考え方を批判した。古典派経済学は、経済現象は自然法則と同種の必然性によって支配され、人の意思によって変更することは不可能であるとの立場を取る。その結果、幾人かの貧困も定められていると考える。対してラスキンは、経済が人の意思によって変更することが不可能と考えるのは権力の乱用を覆い隠すための自己欺瞞だと指摘。いわんや、貧困の存在を仕方ないものと見るのは、無策を肯定するものだと批判した。   また、古典派経済学が「富は生産されることで自動的に蓄積される」と主張したのに対し、ラスキンは「生産されたものを適切に使用する勇気ある人がいて、初めて富になる」と考える。ここで言う勇気とは、知的な能力を大胆に発揮して、共同体のメンバーのために挺身する気概や胆力のことを指している。   最大多数の最大幸福をうたい、幸福とは苦痛の不在だとする功利主義に対し、ラスキンは「最大多数の高潔にして幸福な人間」を主張する。高潔な人とは自らの生をより良いものにすることで、他の人の生にも役立つ影響を及ぼす人である。自分とともに他者の生を豊かにしたいという「愛」を持ち、また、他者の生のために自分の能力を発揮しようとする。       ラスキンを通じて考える新しいラグジュアリー   先述の本條氏の説明を聞くと、昨今ちまたで語られる意見とラスキンの考え方は極めて近いことに気付く。大量生産・大量消費をグローバルに効率化することを最優先する社会は壁にぶち当たり、人々は「別の在り方」を探し求めている。   正確に言えば、大量生産・大量消費の効率を享受すべき分野もたくさんあるが、それが全てではない。そこをどれだけ浮き彫りにして、その存在意義を人々が認識することで、より生きやすい社会になるかを探し求めているのである。何よりも人を経済メカニズムの歯車として捉えていない。   「人間への尊厳が配慮される社会の実現」を目的にビジネスを手掛けるクチネリ氏が、ラスキンの言葉に惹かれる背景もこうした点にあるのだろう。   本條氏は「マーケティングや消費者行動論に関わる人には、価値が市場における相互作用によって立ち現れるものだと考えている人と、何らかの単一の原因に帰着するものだと考えている人がいます。前者がラスキンに通じる新しいラグジュアリーに関心を抱き、後者は数値だけの旧来のラグジュアリー論を支持すると考えています」と話す。本條氏はアカデミアとビジネス実践の両方において、この傾向があると指摘する。   本條氏が専門とする消費者行動論は、大きく分けると2つある。   1つは認知科学、社会心理学、行動経済学が基盤になり、人の購買の意思決定のプロセスを解明し、「売り上げをさらに伸ばす」ために貢献することを主眼とする「行動意思決定論」である。   もう1つは「消費文化理論」という消費者の経験全体を扱う系統である。処分まで含めた消費サイクルやコンテクスト(文脈・状況・背景)を前提とする。消費者のアイデンティティー構築、文化の創造者としての消費者、社会的演者としての消費者というテーマを扱う。   2つを比較すると、ビジネスの場では先に述べた行動意思決定論にくみする「派閥」の方が勢力としては強い。   「パリ経営大学院のジャン=ノエル・カプフェレ教授は『ラグジュアリー戦略は従来のマーケティングの逆張り』と言っていますが、そのラグジュアリー戦略も、あくまでも行動意思決定論の範囲内にあるというのが私の見立てです。なぜなら、いかに人は高いものを買うかという情報処理モデルが対象になっているからです」(本條氏)   そうすると、人々が生活するコンテクストを起点としたイノベーションなどは、行動意思決定論を支持する人たちの視野に入りにくい。しかし、新しいラグジュアリーは人々の日々の生活が基本であり、消費文化理論の領域になるはずだ。         消費文化理論が強く求められる時代になった   前回(2021年6月号)に紹介した米・ハーバード大学でファッション史を教えるジョナサン・スクエア氏が、ラグジュアリー品の購買について「子どもが水遊びをするようなもの」と表現したが、本條氏は「そうした現象も、消費文化理論でないと分からないことだと思います」と説明し、消費文化理論は新しいラグジュアリーにおいて大切な役割を担うと続ける。   これまでのラグジュアリーは、まずストーリーに没入することが要求され、それによってエクスクルーシブ(他とは違う、特別な)な自分を実感できるという順序だった。だが、本條氏が想定する新しいラグジュアリーは、受け手、つまりは買い手に主導権がある。その人たちの生活の中に存在し、思い入れや意味を見いだされる。   このように、消費文化理論はビジネスにおいて重要であるにもかかわらず、実務者や研究者からはやや遠巻きにされる傾向にあるのはなぜだろう。   「消費文化理論は事例研究が多くなり、数値データを取りにくいため、売り上げの向上に直結することが証明しづらいからでしょう。逆にいえば、実証主義の弱点が露呈していると言えます」(本條氏)   本稿の冒頭で述べた問題が、これである。   誤解のないように強調したいが、数値データや実証主義は大いに必要だ。ただし、それはビジネスの一部あるいは一面しか見せてくれないことを同時に認識しておかないといけない。その上で、長期的な経営の形、ビジネスの形を作っていく論理は、消費文化理論に依拠しないと構築しようがないのだ。技術のみでは成立しないビジネスの場合、この点はさらに肝となる。   連載19回目(2021年5月号)で英国・ロンドンにあるサザビーズ芸術大学で教壇に立つフェデリカ・カルロット氏の「ラグジュアリービジネスは社会の文化の創造に貢献する」という言葉を紹介した。長い歴史を振り返ると、その時々の衣食住のラグジュアリーなモノが社会を引っ張る文化的な価値をつくってきた経緯があるからだ。   社会的な義務感が動機にあるのではない。「自分が本当に作りたいものを作りたい」「自分が世界の先端にいる実感が欲しくて手に入れたい」といった人の根源的な欲求が元にある。市場調査とは縁遠い世界である。それでも、いや、それだからこそ、人々が愛してやまない製品が誕生し、たとえ高価格帯の製品になったとしても、人々は購入したいと渇望するのだ。   これを1つの大きなメカニズムに落とし込み、再現性のあるものとしたのが、フランスのコングロマリットを中心とする1980年以降のラグジュアリービジネスだった。それは1990~2010年代、絶好調と表現しても良いビジネスモデルとなった。本條氏の文脈で言うならば、行動意思決定論、つまり消費者の購買動機に基づいた分析データの勝利であった。   しかし、ラグジュアリー本来の動機を、供給者も消費者も自分のものとして感じなくなってきているように見える。ことに消費者の側において「踊らされるのには飽きた」との印象が強い。有名なタレントをアンバサダーとし、インフルエンサー主導によってインスタグラム上で「日常生活の中に馴染んだ商品」が広まれば広まるほど、似て非なるコンテクストの氾濫に消費者は違和感を強く覚えるようになっていく。   結果、コンテクストに対して鋭敏な意識が芽生えたために、自らのコンテクストに立脚したモノやコトへの欲求が増したと言えるかもしれない。もちろん、全てのモノやコトについて「受け手であることに満足しない」のは現実的な考え方ではない。故に、少なくとも自分の感覚がさえる領域においては、より自らの思想や感覚が解放されたところに身を置きたい。一方で、その欲求は自分のわがままに身を任すのとは異なり、自らに正直であることが他人の幸せにつながるとの確信に基づいている。   こうした確信で前進することが称えられる領域がある。それが新しいラグジュアリー、つまり、ラグジュアリー市場の定期調査を行っている米ベイン・アンド・カンパニーの表現を借りれば「文化と創造に秀でた商品が入り乱れるフィールド」である。      
PROFILE
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安西 洋之
Hiroyuki Anzai
ミラノと東京を拠点としたビジネスプランナー。海外市場攻略に役立つ異文化理解アプローチ「ローカリゼーションマップ」を考案し、執筆、講演、ワークショップなどの活動を行う。最新刊に『デザインの次に来るもの』(クロスメディア・パブリッシング)。