再活性化に悩む地方都市の中心市街地
「何が悩ましいかといって、地方都市の中心市街地に関する依頼案件ほど困難を極めるものはない」と言ったら、少し大げさになってしまうでしょうか。
中心市街地の再活性化に取り組む地方都市は数々あります。とはいえ、当事者の中で意見が割れたり、打ち上げ花火的なイベントを催しただけで息切れしてしまったり、あるいは助成金頼みの姿勢が見透かされて周辺からの協力が得られなかったり、うまく事が運ばない案件が多いのも事実です。
そうした中、私が注目している地域があります。それは青森県の八戸市の中心市街地。それもいわゆる商店街の話ではなく、新旧8つの横丁(体よく言えば、飲み屋街)です。車も通れないほどの細い路地に、長屋のように飲食店がひしめき合うというスタイルの橫丁です。
八戸の中心部には、昔から数多くの横丁があったのですが、だんだんと廃れ、1990年代の終わりごろには7つの横丁を残すだけとなるほどに減少しました。その7つの横丁、どこも昭和の香りというか、戦後の香りを漂わせる雰囲気です。7つ残っただけでも大した話であると思わせます。
この横丁を巡っては、21世紀に入って風雲急を告げます。一体何が起きたのか、また、そこからどのように復活したのか。今回は八戸の横丁にまつわる話を通して、中心市街地の再活性化へのヒントを探っていきましょう。
新参組が猛威を振るう
東北新幹線がここ八戸まで延伸したのが2002年。延伸が決定するや、地元商工団体からこんな声が上がったといいます。
「観光客にアピールするため、新しく『すし屋通り』を造ろう」
北海道・小樽に、同じような通りがあって、確かに観光の目玉になっていますね。また、札幌にはラーメン横丁があります。そういう観光地のイメージを思い描いたのでしょう。
しかし、地元の飲食店主たちは強硬に反対します。「今あるものを生かさないでどうするんだ」と。
先に触れた通り、八戸には古くから残る横丁があります。なぜそれを大事にしないのかという主張ですね。飲食店主たちにすれば死活問題だからというのもあるでしょうが、それを差し引いても彼らの気持ちは分かります。地域を盛り上げるには、まず足元にある宝物を大事にすることが鉄則だと私も強く感じますからね。
7つの古い横丁の1つには、すでにすし屋が何軒か並んでいたそうです。ところが「あんな古い店じゃダメだ。観光客は振り向かない」とまで言い放たれたらしい。
その後、すし屋通りの企画は立ち消えになったものの、代わりに出来上がったのが「みろく横丁」という名の新たな横丁でした。派手な電飾が目を引き、真新しい屋台が連なる、そんな横丁でした。そして、そこに入店するのは主に飲食業界への新参組でした。
2002年、この「みろく横丁」が生まれた途端、古くからの7つの横丁はかつてないほどの危機に見舞われました。客足がばったりと途絶えたのです。既存の店が100軒以上もつぶれてしまいました。
八戸の地域振興のために立案された、みろく横丁。その登場で、八戸を昔から支えてきた店々がとばっちりを受けてしまった格好です。「一体、何のための地域振興なのか」という声が上がったのは、当然でしょう。
古さこそが目玉になる
さあ、7つの古い横丁は、指をくわえているだけで死滅を待つのみだったのか。違いました。7つの横丁の顔役であり、みろく横丁にも出資していた、1人の男性が動き始めたのでした。
「こうなったら、新しいみろく横丁も含めた合計8つの横丁を広い面として捉えて、一緒に振興策を練っていかねば」
そうして2005年、八戸横丁連合協議会が発足しました。顔役の男性が事務局となり、「加盟は強制、会費はゼロ、運営費はイベントで賄う」を旗印に、新旧8つの横丁をまとめようと奔走しました。
最初は大変だったそうです。古い7つの横丁にしてみれば、「なぜみろく横丁と組まなければならないのか」という思いもあったでしょうし、飲食店を長年切り盛りしてきた誇りもそこにはあったでしょう。 時には足の引っ張り合いも起きたと聞きました。
そうした空気に変化が訪れたのは、協議会がどうにか発足して間もないころのことでした。
八戸市の観光課職員が、古い横丁の魅力に気付いたのだといいます。職員が市外から来た顧客を横丁に連れて行ったときの話。その顧客は新しさあふれるみろく横丁よりも、むしろ古い横丁のノスタルジックな空気感に魅了されていたのでした。
その職員は役所の中で力説しました。「古い横丁こそ、八戸の観光資源になります」と。これが発端となって、8つの横丁がそれぞれの持ち味を生かして頑張ろうという機運が生まれたのです。
市の職員は、すぐさま、8つの横丁を網羅したパンフレット作りに着手しようとしました。しかし、そこで議会から反対の手が。
「どうして行政が、飲み屋の宣伝をするのか」―。
それに対して職員は「飲み屋の宣伝ではなく、地域の宝の宣伝なのだ」と強調したのです。パンフレットは無事に出来上がりました。そこから、八戸の横丁は快進撃を始めます。
「飲みだおれラリー」を開催
2000年代後半、協議会はいよいよ新旧8つの横丁を貫く形でのイベントを企画しました。
それは「飲みだおれラリー」。一晩で8軒の飲食店をラリーのように巡って、まさに飲み倒れてしまおうという企画でした。
なぜ8軒なのか? それは、新旧8つの横丁から1軒ずつ必ず参加してもらうためでした。イベントに対し消極的な各横丁を、事務局の男性が説得して、何とか飲みだおれラリーは開催されました。
しかしイベント終了後、「こんなに面白いイベント、年に1度しか開かないのはもったいない。年2回にしよう」と、横丁の内部から早速第2回目を開催しようという声が上がったのです。
今では毎回300人が参加する一大イベントとなった飲みだおれラリー。回を重ね、変化したことは1つだけ。8店舗を巡ると、文字通り飲み倒れてしまう参加者が相次いだので、5店舗を巡るコースにしたのです。その代わり、コースを複数設けました。そうすることで、毎回の参加店舗はむしろ増えたといいます。
空き店舗が埋まった
協議会ができてから12年。八戸の横丁は変わったのでしょうか。
事務局の男性は言います。
「いっときは空き店舗だらけだった横丁に、ここ数年、大きな変化が起きています。何と、空き店舗が埋まってきたのです。それも、古い横丁の」
若い店主が増え、それを近隣のベテラン店主が支えるという好循環がそこに生まれたと聞きました。
おそらく、横丁に関わる多くの人が実感したのでしょうね。「みろく横丁」の登場から既存の店舗が危機にひんしたことに始まり、そこから一緒に動くことで横丁が徐々に再注目され、お客が増え、空き店舗が埋まった事実への実感です。それが再活性化へのさらなる推進力となったわけですね。
全国各地に目を転じると、危機が目の前に迫っていても動かない商店主がいます。最後まで誰かと一緒に何かを成すことを拒否する商店主も少なくありません。でも、八戸の横丁は違いました。
全横丁の取りまとめに動いた事務局も、議会の反対にひるまなかった市の職員も素晴らしかったと思います。何か1つ、形にするまでが大変なのですよね。
最後にもう1つ。「全国的に盛り上がり始めた横丁人気のブームに乗っただけじゃないの?」とお考えの方へ―。八戸は横丁ブームに乗ったのではなく、八戸こそがブームをつくった立役者だったと私は思います。