ビジネスにおいて、数値化しにくい事柄は疎まれたり、距離を取られたりする。確かに数値化できる事柄は相手に説明しやすく、処理するにも扱いやすいが、数字は対象の一部しか表していないことを忘れてはならない。
ビジネスは数値化しにくい領域に手を焼いている
ビジネスの世界でマーケティングという言葉は頻繁に使われる。しかし、それぞれが違ったレベルで話し、趣旨が噛み合っていないことも多い。例えば、マーケティングを「売るための手練手管である」とか「顧客のニーズを探ることである」と大きな声で話す人がいる一方で、「企業と消費者が互いに手を携えて何かを新しく生み出すことだ」と強調する人もいる。
実際のところ、それらは全て正しい。適用するタイミングと場がそれぞれに問われているのだ。
さて、マーケティングに限らず、およそ数値化できるセオリーは誰もが納得しやすい。他方、数値化しにくいがテーマとして重要な領域を、数値化できることとどう共存させるか。これはビジネスの課題である。さらに言うと、そもそも数値以外の領域を支持する人は少ない。
数値以外の領域を間違っていると思って支持しないのではない。正しいのだろうと思いながらも、手法が不明解で、結果も可視化されにくいから腰が引けるのだ。ある程度時間を経て「やっぱり、あの方向で良かったのだね」と評価される可能性があると薄々感じていても、どうしても後回しになる。
今回は、服飾史家の中野香織氏と私が主宰する、新しいラグジュアリーの意味を探る研究会のメンバーである本條晴一郎氏を紹介したい。本條氏は静岡大学学術院工学領域事業開発マネジメント系列の准教授である。専門はマーケティング、製品開発、消費者行動論だ。物理学と経営学の両方で博士号を持っている。彼は数値の世界を熟知するからこそ、数値化しにくい領域の研究に軸足を置いている。また、両方を相手にする時には公平な態度を取る。
2021年3月、研究会において「ガンディー研究から見るラグジュアリー」と題する内容を発表していただいた。本條氏は数理科学の世界から経営学に移る間に、脱植民地化の研究をしていた。脱植民地化はコミュニケーションの極端な形であり、研究対象として有用だという。今回はその発表の一部と、別の機会に本條氏へインタビューした内容を紹介したい。
新しいラグジュアリーが新しい時代をつくる基礎的なコンセプトになるであろうことが予見されるはずだ。
ガンディーに影響を与えた英国の思想家ラスキン
インドの独立運動を主導した思想家・運動家として知られるモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(マハトマ・ガンディー、1869-1948年)は、1888年に英国へ留学し、弁護士資格を取得。1893年、南アフリカへ渡った際に人種差別を受けたことをきっかけに、22年間にわたり南アフリカにおいて人種差別反対の活動を続けた。活動が実を結び、1914年には南アフリカ政府がインド人移民の要求を認める救済法を施行した。
1915年にインドへ帰国したガンディーは、英国から独立するための非暴力・不服従運動を続け、1948年、ヒンドゥー教徒により暗殺されて78歳で人生の幕を閉じた(インドの独立は1947年。ジャワハルラール・ネルーが初代首相)。
ガンディーは英国の思想家であるジョン・ラスキン(1819-1900年)の著書に感銘を受けていた。南アフリカ滞在中にラスキンの著書『この最後の者にも』に感化され、1904年に農園を開設している。
本條氏は「労働によって生きること、すなわち農夫や職人の生活は、生きるに値する。そうラスキンから学んだガンディーは農園を開きました」と解説する。
ラスキンは、本連載で新しいラグジュアリーのモデルとして想定しているウィリアム・モリスの思想的先駆者だ。モリスは19世紀の後半、英国で反産業革命のアーツアンドクラフツ運動を行い、職人技の尊重や生活の質を問うた。そのモリスが師事したのがラスキンなのである。
ラスキンの影響を受けた文学者は、ロシアのレフ・トルストイ、フランスのマルセル・プルーストなど数多くいる。この連載でも何度か紹介しているイタリアの高級ファッション企業、ブルネロ・クチネリの創設者であるクチネリ氏も、ラスキンの著作には学ぶべき点が多いと自著に書いている。
ラスキンの考え方には、どのような特徴があるのだろうか。本條氏は次の点を挙げる。
ラスキンはアダム・スミス(1723-1790年)などが唱えてきた古典派経済学の考え方を批判した。古典派経済学は、経済現象は自然法則と同種の必然性によって支配され、人の意思によって変更することは不可能であるとの立場を取る。その結果、幾人かの貧困も定められていると考える。対してラスキンは、経済が人の意思によって変更することが不可能と考えるのは権力の乱用を覆い隠すための自己欺瞞だと指摘。いわんや、貧困の存在を仕方ないものと見るのは、無策を肯定するものだと批判した。
また、古典派経済学が「富は生産されることで自動的に蓄積される」と主張したのに対し、ラスキンは「生産されたものを適切に使用する勇気ある人がいて、初めて富になる」と考える。ここで言う勇気とは、知的な能力を大胆に発揮して、共同体のメンバーのために挺身する気概や胆力のことを指している。
最大多数の最大幸福をうたい、幸福とは苦痛の不在だとする功利主義に対し、ラスキンは「最大多数の高潔にして幸福な人間」を主張する。高潔な人とは自らの生をより良いものにすることで、他の人の生にも役立つ影響を及ぼす人である。自分とともに他者の生を豊かにしたいという「愛」を持ち、また、他者の生のために自分の能力を発揮しようとする。