Vol.44 完成の後こそが大切だ:北の屋台
屋台村の元祖は帯広だった
皆さんの街には、「屋台村」がありますか。一つの敷地に集中して屋台を並べ、さまざまなジャンルの料理店をそろえるという形態の屋台村ですが、現在では北海道から沖縄まで、全国各地で見掛けることができます。
このようなトレンドが生まれたのは、21世紀に入ったばかりの時期からです。最初にできたのは北海道の帯広。今回取材した「北の屋台」が元祖なのです。
開業は2001年夏なのですが、そのきっかけは、地元青年会議所のOBたちの手による発案でした。人の行き来が少なくなった市街地の活気をどう取り戻すかを考えに考えた結果でした。
それにしても、どうして屋台だったのでしょうか。そこには緻密な計算があったようです。
ただ単に飲食施設を造るというのでは、持続する町おこしにはなりづらい。飲食店など、すでにたくさんありますからね。
青年会議所OBたちはこう考えた。入居を募るのは、個人でこれから飲食店を起業したいという方たちだけに絞ろう。新しい息吹を中心市街地に集結することが大事。そして、屋台であれば、起業するにしても初期費用は200万~400万円と低廉で済む。
さらに屋台の形で起業し、実力を蓄えたら、ここの屋台村を卒業して街に出てもらおう。そうすれば、街にも賑わいを広げることができるはず??。
つまり、ただ「屋台村を造れば客が来る」といった単純なもくろみではなかったのですね。街に“いい循環”を巻き起こすことが、当初からの大きな目標として掲げられていたのです。
それでも当初は、反対の声が上がったといいます。「街の中心に屋台村など設けたら、街の飲食店はますます客足が途絶えるじゃないか」というふうに。でも、すでにもう客足は途絶えているわけです。その意味では、客の食い合いではなく、客そのものを街に取り戻そうとしたのですね。
反対の声はまだあります。「冬にマイナス10℃を下回るような寒い街で、屋台など成立するはずがない」と。でも、マイナス10℃までにはならないとはいえ、20世紀から屋台が根付いている九州の博多だって、冬はそこそこ寒いですし、戸をしっかりとしつらえた屋台できちんと暖房すれば、問題ないと踏んだそうです。
最初の3年は低空飛行 否定的な声もあった
そうして生まれた「北の屋台」は、設立当初だけ行政からの助成金は得たものの、全て民間による事業です。組合を設立し、そこが運営に当たっています。
2001年のオープン時から華々しい展開となったのか。いや、決してそうではなかった。
屋台村という形態が、まだ根付いていない時期です。開業当初の夏こそ、観光客も多いのでそこそこ賑わいましたが、周囲からは「秋風が立つ頃には、もうダメだろう」とうわさされていたそう。
実際、オープン前後は相当な混乱があったと聞きました。
理由の一つは、テナント募集での苦労でした。最初に募ったら、集まったのはラーメン店や焼き鳥店などばかり。つまり、昔の屋台のイメージが付きまとっていたのですね。しかも起業を目指す人だけでなく、チェーン店や2号店をここに出そうとする企業も手を挙げた。
「北の屋台」の組合は、料理ジャンルのバリエーションを広げようと、再募集をかけると同時に、自分たちの意図と異なる企業を排除しようと動きます。ここはあくまで起業を支援する場であり、かつ、店主とオーナーを同一化して、店舗経営への責任をしっかりと担ってほしかったからです。混乱が収まり、本来目指す体制を形成するまでに数年はかかったらしい。その間、テナントが埋まらなかったり、入った店がすぐやめたりと、大変だったそうです。
4年目に花開いたその理由は何だったか
それでも、当初の大方針は貫いた。なぜか。先ほどお伝えしたように、この屋台村プロジェクトは単に飲食店街を造るというところに目的を置いていなかったからなのですね。屋台というハードウエアを並べて、そこに店を入れられたらプロジェクトが完成するのでは決してない。むしろそこからが肝心で、寂れてゆく中心市街地をどうするかこそが課題だから、最初の大方針は崩してはいけなかった。そこを運営側がしっかりと認識していたという話です。
今回、なぜ開業から18年もたつ「北の屋台」をわざわざ取り上げたかというと、まさにその点をお伝えしたかったからなのです。
先に触れた通り、屋台村はいまや全国各地に広がる存在です。しかし、いくつもの屋台村をのぞいてみると、必ずしも全てが成功しているとは言い難い。寂しい状況のところも少なくないのです。
成否を分けるのは何なのか。私は「そこに大方針があるか、その大方針を貫いているか」が鍵になっていると強く感じます。
その街を元気にすることが屋台村の一つの役割とするならば、どう元気にするのか、そのために何が引けない一線なのか、そこを見極め、実践しないといけない。
開業して最初の3年、「北の屋台」は客がさほど多くなかった。しかし、組合も店主たちも「3年間は頑張ろう」と声を合わせていたそうです。
そして4年目に花開いた。年間15万人が一気にやって来たのです。帯広から始まった屋台村設立の機運が全国に広がり、その波及効果が、元祖である帯広に戻ってきたという格好でした。
店と客と生産者の距離がとにかく近い
「北の屋台」の驚くべき点は、開業して18年がたった今でも、平日であろうと各店舗が満席続きであるところです。訪れてみて、いやもう、びっくりしましたよ。
その訳を知りたくて、私は今回、20ある全ての屋台を一つ残さず一般客として訪れました。
そうしたら、なぜ「北の屋台」が元気なのかが分かりました。
まず、店主と客、また客同士の距離が近い。おのずと会話が弾みます。これは、この屋台共通のしつらいである、コの字型カウンターがもたらす効果でしょう。どの屋台で過ごしても、隣り合う客や、店主との歓談が始まります。
さらに驚異的に感じられたのは、地元の客がとても多いこと。屋台村といえばあくまで観光客向けという色合いのところも少なくない。ところがここは地元客、地元以外の道内の客、そして道外の客と三層をしっかりとつかんでいる。
その理由はすぐ理解できました。どの店も、地元以外から来ている客だけでなく、地元の人も感嘆するような食材や料理を用意しているからなのです。一店残らずレベルが高い。それって、なかなかないことですよね。屋台同士、切磋琢磨していることがうかがえます。
それが可能になるのは、食材の生産者との距離がまた近いからだと確信しました。ある店で豚のパンチェッタ(豚バラ肉を塩漬けにしたもの)を食べていたら、いきなり隣客から「おいしいですか」と声を掛けられました。実はそれが生産者本人だったのです。
地元の生産者たちは、「北の屋台」をお披露目の場として認識していて、自らの産物を卸すだけでなく、一般客がどう反応するのか、普段から見に来ているのです。
そうした流れがあるから、地元客も納得するような飛び切りの食材がここに集まるわけです。
ライバルとの連携をいとわず
「北の屋台」を巡っては、もう一つ見逃せない点がありました。
それは隣接する飲食施設とちゃんと連携していること。道路を隔てて向かい合うところに、2010年開業の飲食施設「十勝乃長屋」があります。こちらは19店舗で、やはり実力派の飲食店が多い。言ってみればライバルですね。
でも、ワインイベントを共催するなど、手を携えている。これ、ありそうでなかなかない。地方の商業施設を見ると、隣り合うところ同士がいがみ合うケースも結構ありますから。私はこのようなところ一つ取っても、帯広の屋台の事例には学べる点が多いと感じました。
こう見ていくと、お分かりになると思います。屋台村は何をもって屋台村と言えるのか。
屋台という形が重要、というのにも増して、そこで何を育んでいくか、ではないでしょうか。