経営理念を体現する広大な「セキガハラ・キャンパス」
若松 岐阜県不破郡関ケ原町に拠点を置く関ケ原製作所は、7 つのニッチ領域で事業を展開されており、売上高は248億円、従業員は393名になります。タナベコンサルティンググループも、これまで経営者人材育成コンサルティングなどで支援させていただいており、社風やビジョンは理解している立場ですが、あらためてお話しを伺いたくお願いします。
関ケ原と言えば「天下分け目の戦い」の地としても有名ですが、この歴史的価値の高い場所に関ケ原製作所の拠点「セキガハラ・キャンパス」があります。現場を拝見すると、まさに「キャンパス」と言うにふさわしい環境を創っておられます。
矢橋 ありがとうございます。関ケ原の戦いで東軍と西軍がそれぞれ陣を敷いた、そのちょうど真ん中あたりに工場が位置しています。当社は、会社を「学び成長していく広大なキャンパス」と捉えています。それを具現化したセキガハラ・キャンパスは、15万㎡の敷地内に、工場や社内研修などで使われる「人間塾」、ものづくりの教育施設「匠道場」、創業者の家を復元した「創業者邸」などのほか、やすらぎ広場やカフェなどを擁する、地域に開かれた施設となっています。
もともと矢橋家は、岐阜県大垣市赤坂で古くから金融・大理石・育英事業を営んでいました。当社は私の祖父であり創業者の矢橋五郎が分家として関ケ原の地で独立したのが始まりです。矢橋家には「陰徳を積め」「商売に頼るな」「書画骨董に親しめ」という家訓があり、人を大切にする文化・哲学に重きを置いてきました。また、矢橋五郎の「会社はみんなのもの」という創業の精神は今も当社に息付いており、それを体現する施設を目指しました。
若松 創業は1946年ですから、「会社はみんなのもの」という創業の精神は、会社と社員の関係性において非常に独創的かつ大事な原点であると思います。2026年11月には創業80周年を迎えられる中、今は7つの事業領域で多角的に展開されています。事業経営に対する考え方をお聞かせください。
ものづくり技術の研鑽と伝承の場「匠道場」。現場と同様の作業環境が整い、技能士などの資格を持つ技術者指導のもと、社員が自発的に溶接・機械加工・組立といった技術を基礎から学ぶ
矢橋 当初は本家の縁もあって旧国鉄や商船関連の事業を立ち上げ、その後、現在の主力事業である大型鉱山で使用される油圧シリンダーやトンネル掘削機へと事業領域が広がっていきました。
現在は7つのニッチ領域(【図表1】)で事業を展開していますが、特徴は大手企業が参入しない、もしくは参入しづらい分野、かつ、中小企業では技術的に参入が難しいニッチ分野であること。いずれの事業も業界ナンバーワン、ナンバーツーの企業と取引しており、特に鉄道向けの軸受製品の国内シェアは9割以上に上ります。
【図表1】関ケ原製作所の事業領域
出所 : 関ケ原製作所提供資料よりタナベコンサルティング作成
若松 9割とは圧倒的です。私は、「売上高や利益はマーケットシェアとブランド(技術)力で決まる」と言っています。各事業が国内トップクラスのグローバル企業と取引してニッチトップを目指していることが、戦略的に値決めのできる経営スタイルにつながっています。
矢橋 簡単に説明すると、油圧機器の製造は、大型のマイニング(機械を使った大規模な採掘)機種に特化しており、部品として取引先の海外生産拠点に供給しています。商船機器としては、甲板に設置されるクレーンや救命艇用のクレーンを生産しており、標準品は中国工場で生産する一方、特殊品の生産や開発は国内で行っています。
舶用特機は、官公庁向けが中心。祖業である鉄道関係は、レールの分岐器の量産や省人・省力のメンテナンス装置の開発を行うほか、海外展開としてインドや米国テキサス州へ高速鉄道関連の装置や部材を供給するなどしています。
精密機器分野では、大型石製マシンベース(機械の下に設置する精密に調整された水平な台)のトップメーカーであり、1万分の1㎜単位の超精密加工が可能。液晶画面や半導体などの製造装置に使用されています。大型製品は、一品物やオーダーメード装置の設計・製造・アフターメンテナンスまでを一気通貫で請け負っており、「工業製品の宮大工」的な事業。軸受製品は、鉄道の車輪部分のベアリング用カバーを生産しています。
売上構成としては、油圧機器関連が約50%を占めており、残りの事業がそれぞれ約10%です。
若松 「卵を1つの籠に盛らない」ことはリスク分散の経営であり、その上で、各事業は大手企業が参入しない、もしくは参入しづらい分野、かつ、中小企業では技術的に参入が難しいニッチ分野でのバリューチェーン構築を目指す事業コンセプトが大切です。
経営の本質を知り物心両面の充足を図る「人間ひろば活動」に注力
若松 矢橋社長は6代目ですが、どのような経緯で事業承継をされたのでしょうか。
矢橋 もともとは商社に勤務していましたが、31歳の時に叔父で2代目社長の矢橋昭三郎から後継者として呼び戻されました。当時は売上高80億円、従業員数300名という規模。35歳で常務に就任しました。当時の経営は、急成長を遂げて売上高100億円になったころ、脱オーナー経営へとかじを切り、取引銀行や主要取引先に株式を譲渡して、3代目、4代目の社長は取引先や銀行出身の方が、5代目はプロパー社員が務めました。
私自身は37歳で常務から平社員に戻って現場を回るという立場になりました。大学院でMBA(経営学修士)を取得した後、2009年に中国工場に赴任することになりました。
若松 関ケ原製作所の長い歴史の中で、経営スタイルの試行錯誤があったのでしょう。それでも会社に踏みとどまり、平社員に戻り中国から再出発したことも、創業の精神を胸に秘めていた矢橋社長だからできた決断であったと感じます。
矢橋 片道切符で中国に赴任しましたが、そこで多くの気付きがありました。合弁会社だった中国工場を単独資本に変更するのに大変苦労していた際、みんなが一生懸命助けてくれたのです。それまでの私は、プレーヤーとして仕事にかなり自信を持っていましたが、プレーヤーとして1人でできる仕事には限界があると気付きました。メンバーが1つのチームになって目線を合わせると大きな力が発揮できるという中国での経験は、私にとって大きな発見でした。
若松 経営は1人で始めなければ何も始まりませんが、1人では何もできません。両方正解であり、経営者としての仕事の本質ですね。
矢橋 おっしゃる通りです。それに気付いた時、創業者の教えや経営理念が腹落ちしました。これが経営者の仕事であり、経営なのだと理解した私は、すぐに人間主体の経営を目指す「人間ひろば」の活動を中国でもスタートさせました。
具体的には、給与面だけでなく、社内で運動会やバーベキューを開催したり、当時の中国では珍しかった社員旅行をしたりと、社員の物心を満たす取り組みに力を注ぎました。その結果、25%近かった離職率は4%まで下がりました。
若松 中国という場所で離職率25%が4%になったのは劇的な変化です。人間ひろばの活動が中国でも受け入れられた証しですね。物の充足だけでは社員の働きがいや帰属感は高まりません。経営は物心両面が大切です。その体験から、経営理念が腹落ちしたことは社長業として非常に大きいです。矢橋社長はその後、2015年に帰国されましたね。
矢橋 中国における活動や成果が日本本社に届くと、帰国するよう要請を受けました。国内は脱オーナー経営によって売上高は拡大していましたが、収益力やバランスシートには課題も多く、それまで大切にしていた志や「みんなの会社」という理念が希薄になりつつありました。急速な事業拡大によって休日出勤や長時間労働が当たり前になっており、社員は疲れ切っていたのです。疲弊する社員の姿を見て「なんとかしなければいけない」という思いが強くなり、日本に帰る決断をしました。