(左)本多電子 代表取締役社長 本多 洋介 氏 (右)タナベ経営 代表取締役社長 若松 孝彦
世界初となるトランジスタポータブル魚群探知機を開発して以降、「超音波技術」のトップランナーとして数多くの製品を送り出している本多電子。無借金経営と技術の多角化を実現した代表取締役社長の本多洋介氏に、グローバル・ニッチトップ戦略について聞いた。
魚群探知機で米国市場を席巻後、プラザ合意などで危機に直面
若松 本多電子は1956 年の創業以降、魚群探知機の専門メーカーとして国内外から高い評価を得ています。現在は、固有技術を応用して医療分野や産業機器分野に事業を広げるなど、「超音波のファーストコールカンパニー」です。本多社長が社長に就任されたのはいつごろでしょうか。
本多 私が30 歳の時ですから、29 年前(1987年)です。それまでは経営企画室の取締役という肩書でしたが、実際はセラミックス事業部の課長、エンジニアとしての仕事が中心でした。
若松 若くして承継されたのですね。多くの事業承継を見てきましたが、30 歳で社長というのは早いタイミングだったと思います。
本多 「たとえ利益がなくても、良い魚群探知機をつくりたい」。これは創業者である父・本多敬介の言葉です。お客さまの課題を解決することを第一に考え、リスクを取ってでも開発を行ってきました。魚群探知機の重要な材料であるセラミックスを自社開発に切り替えるなど、品質の向上に徹底して取り組んだ結果、国内だけでなく米国にも販路が広がっています。社長を引き継いだ年齢は若かったものの、良い製品をつくれば評価してもらえると信じていましたから、不安よりも「どこにも負けないモノをつくる場が与えられた」という気持ちの方が強かったですね。
若松 超音波のキーテクノロジーである圧電素材も自前で開発するなど、一気通貫で開発製造を行う姿勢に技術者としての信念を感じます。会社を引き継いでからも経営は順調でしたか。
本多 プラザ合意(1985 年)とブラックマンデー(1987 年)によって、承継後、業績が急激に悪化しました。
若松 当時、魚群探知機は海外での評価も高かったでしょう。その分、業績への影響が大きかったのではありませんか。
本多 ピーク時には売り上げ全体の約7 割を米国市場で占めていました。それまで前年度の収益を超える右肩上がりの状態が続いていましたが、一転して減収減益に陥り、2 年間で売り上げが約40%ダウンする厳しい状況に置かれました。社長として初めての仕事は、米国支社を閉じることと、高水準だった給与の見直し。今、振り返ると良い経験になったと思いますが、経営の難しさが身に染みましたね。
財務強化とワンストップソリューション戦略で経営を安定化
若松 急激な環境の変化に直面されたわけですが、経営危機を乗り越えるために、どのような対策を打たれたのですか。
本多 1つは財務面の強化に取り組みました。従来は技術開発のため、積極的に先行投資を行っており、借入金も多額でした。日本はバブル経済で金利が高かったため、多少の利益では返済どころか金利で消えてしまう。雇用を守るためにボーナスの見直しなど給与の減額にも着手しました。
当社は40歳以上の社員に対しては年俸制を導入していますが、30歳の新米社長が経営環境を説明しながらベテラン社員の年俸を決めるわけですから、簡単ではありません。今でも、酒の席では当時のことが話題に上ります(笑)。
若松 経営コンサルティングで再建の支援を行ってきた経験からいうと、世代交代はピンチをチャンスに変える機会である場合が少なくありません。
本多 もう1つは、事業モデルの見直しです。事業の基盤をつくったのは先代社長ですから、先代と話し合いながら残すべきものと諦めるべきものの選択を行いました。残すべきものとは「超音波技術」。これに関してはあらゆる可能性を模索していく。一方、量産のモノづくりはアウトソーシングすると割り切りました。
若松 ピンチをチャンスに変えるには、「捨てる」「切る」ことが大切です。こだわる部分と捨てる部分を決めたことで、どのような変化が起こりましたか。
本多 超音波技術を核とする市場開発型の事業モデルに特化したことで、新分野の開拓に注力できました。医療診断装置を中心とする医療分野や超音波洗浄機などの産業機器分野へ参入を果たし、事業の柱が増えたことで、安定的な収益を生み出せるようになりました。こうした改革によって、社長就任から11年目にようやく無借金経営を実現したのです。
若松 開発型企業は、「技術一流、経営二流、財務三流」という会社が少なくありません。厳しい状況の中、無借金経営を実現されたのは素晴らしいですね。1000社以上の会社を診てきたコンサルタントの経験科学として、ファーストコールカンパニーは「1T3D戦略」を推進しているところが多いですね。1つの固有技術(Technology)で3つの事業領域(Domain)を開拓する戦略です。「ワンストップソリューション戦略」とも呼びます。現在の漁業、医療、産業機器というドメインに加えて、今後は事業の柱を増やしていくのでしょうか。
本多 いくつか積極的に先行投資を行っています。農業の自動化や環境測定、地質調査などには、将来的な可能性を感じています。オープンソース戦略として大学との共同研究にも取り組み、約20校と具体的な研究を進めているところです。
若松 事業の柱が増えれば、環境変化にも対応できます。本多電子には、顧客の課題を解決(ソリューション)し、良い製品を開発していく創業の精神が受け継がれており、さまざまな分野への技術の応用が期待されます。
本多 製品をつくり、お客さまに喜んでいただく。それがメーカーとしての大きな喜びです。歴史が古い魚群探知機や医療診断装置はB to C に近い製品で、顧客のニーズを反映しやすいですね。一方、B to B である産業機器の場合は超音波が装置の一部となるため、本来のユーザーの要望が見えにくいことが課題。顧客が見えるような仕組みに変えようと取り組んでいるところです。
若松 顧客価値を捉えたソリューションにすることが重要ですね。
本多 プラザ合意の経験から体制をつくり直しましたが、それを維持することに目を向け過ぎていたのかもしれません。2008年のリーマン・ショック以降は、自動車や家電、半導体など日本の主要産業が大きな打撃を受け、当社も例外ではありませんでした。ただ、このときに顧客価値が見えていたら、打つ手はあったのではないかと感じています。
企業経営とは、「失敗から学んで次に生かす」ということではないでしょうか。その連続が20年、30年、そして100年とつながっていく。常に不安定な環境の中で経営をしている危機感を持っていなければなりません。