『パイプハウス』やプレハブ住宅の原点となった『ミゼットハウス』を開発し、「建築の工業化」の先駆者となった大和ハウス工業は2015年、創業60周年を迎えた。代表取締役会長・CEOの樋口武男氏は、創業100周年に売上高10兆円を達成すべく、新たな事業価値の創出に余念がない。未来へ向けた会社の在り方とリーダーの心構えを聞いた。
創業者に教え込まれた「社会の公器」の会社
若松 大和ハウス工業は、故石橋信夫氏が「建築の工業化」を企業理念として1955 年に創業。プレハブ住宅の原点となった『ミゼットハウス』を世に送り出すなど、常に日本の住宅業界をけん引してきました。さらに、商業建築やリゾートホテルなど多角的な事業展開を推進し、現在では166社を擁する大和ハウスグループを形成。創業100周年となる2055 年には、グループ売上高10兆円を目指していらっしゃいます。
樋口 2015年は創業60周年で、グループ売上高は2.8兆円(2015年3月期、連結)。まだ、創業者の石橋信夫から託された「創業100周年に売上高10兆円の企業グループ」という目標の3分の1 にも達していません。創業100周年には私は117歳になります。そこまで生きる自信はさすがにない(笑)。できることなら前倒しして、10兆円を達成してもらいたいですね。
若松 石橋氏との出会いや、社長に就任された経緯などを教えてください。
樋口 20 歳の時にサラリーマンのままで人生を終わらせないと決意しました。自分で会社を興し、上場して社長、会長として終生働こうと。大学を卒業して鉄鋼商社に就職したのは、実学を勉強しようと思ったから。しかし、ぬるま湯的な環境に幻滅し、「このままではあかん」と転職先を探しました。当時、週刊誌で「モーレツ会社」「不夜城」などと書かれていた大和ハウス工業を知り、「ここしかない」と直感。歩合制セールスの面接に行き、「私は結婚しており子どもも生まれるから、正社員として採用してほしい」と頼み込みました(笑)。
こうして大和ハウス工業の社員になり、創業者の石橋オーナーと出会ったわけです。現在の私があるのは、石橋オーナーとの出会いがあったから。石橋オーナーが会社のトップでなかったら、私はとうの昔にクビになっていたでしょう。
若松 石橋氏との出会いは運命的だったのですね。人生ドラマは「遺伝、偶然、環境、意志の産物」ともいわれますが、まさにその言葉の通りであると感じます。
樋口 本社で全国の資材購買を担当していたとき、当時社長であった石橋オーナーに呼び出され、釣書を見せられました。「私はもう結婚しています」と言うと、「そうか」との返事。その後もまた呼び出されて釣書を見せられたので、「前にも言いましたが、私には子どももいます」と答えると「そうやったな」と笑っていました。その頃から、石橋オーナーに父親のような尊敬と親しみを感じるようになりました。他の社員は「本社には怖い社長がいるから、できるだけ地方勤務をしたい」と言うほど恐れていましたが、私は本社勤務がよかった。石橋オーナーは、筋の通った話ならしっかり聞いてくれると確信していました。
私は決してごまをすらないため、損をしたこともたくさんあります。それでも自分の信念をずっと貫くことができたのは、石橋相談役が会社のオーナーだったからです。
若松 樋口会長はオーナーではありませんが、強烈なオーナーシップを感じます。私は経営コンサルタントの立場から、企業組織には、オーナーシップが不可欠と提言しています。企業規模が大きくなると、「城はわが身の精神」がだんだん薄れる傾向にありますね。大和ハウスグループを経営する中で、オーナーシップとどのように向き合っておられるのですか。
樋口 グループ全体の社員数が3 万人くらいで売上高が1 兆円を超えたころ、石橋オーナーが「社員が3 万人もいる会社は、社会の公器や。社員の後ろには家族がいる。協力会社にも社員とその家族がいる。皆を路頭に迷わすことは断じてできん」とおっしゃいました。その言葉が今でもすごく好きですね。石橋オーナーは戦地で負傷して2年近く療養生活を送り、帰国を勧められたにもかかわらず、部下のいる部隊に戻ろうとしたが、他地域に転出していたため別の部隊に復帰。その後、ソ連兵につかまり、シベリアに抑留されました。その気概は終生変わらず、仕事に対する情熱と、部下とその家族に対する想いには、いつも圧倒されました。2003 年に81 歳で亡くなられたとき、一代で1兆円企業を築いたのに、資産は自宅と自社株だけ。社会の公器としての企業育成、「人財」育成に徹した人でした。
私は46 歳から役員になり、大和団地社長としての8年間など、通算すると役員を31年間務めています。その間、多くの企業トップと会ってきましたが、手前みそではなく「石橋オーナーよりすごい」と思う経営者には会えていない。だから、自分はとても幸せだと思います。
どんな事業が、どんな商品が、世の中の多くの人の役に立ち、喜んでいただけるかをベースに考えるべき。私はそれを忠実に行っているだけです。樋口 武男氏
理念に合った変化を促し基軸となる人財を育てる
若松 石橋氏は「世の中に必要とされるものを事業にする」と宣言されました。大和ハウス工業の事業の原点は、そこにあると感じます。
樋口 「何をしたら儲かるか」という発想では駄目です。どんな事業が、どんな商品が、世の中の多くの人の役に立ち、喜んでいただけるかをベースに考えて事を興すべき。私はそれを忠実に行っているだけです。
若松 事業の原点は「世の中のためになる」ということですが、これだけ大きな規模の企業グループですから、事業構造も成長に伴って変革されてきたわけですね。
樋口 世の中は変わる。人の生活も変わる。だったら、一歩先の変化を先取りするような経営をしていくべきです。当社の場合、変化の方向性が「世の中の人の役に立ち、喜んでもらえる」というキーワードに適合しているかどうかを吟味することが私の使命です。
若松 事業の軸足となる「本業」と、変化としての「多角化」を、どのように関連付けてこられたのですか。
樋口 どんなに会社が大きくなろうとも、事業が変わっていこうとも、基軸になるのは人。人を育てないと、会社に未来はありません。サステナブルな成長を目指し、幹部となる人財を育成しようと努めています。
若松 それが「大和ハウス塾」ですね。
樋口 そうです。講師は外部から起用し、私は中間発表と最終発表を聞いて講評します。最終発表の前に参加者全員と面談し、「この人財は」と思った人物にはポジションとチャンスを与えています。私も石橋オーナーからのテストを何度も受けました。大和団地の再建は最終テストだったと思っています。1993 年、大和ハウス工業の専務を務めていたときに石橋オーナーに呼ばれ、「大和団地がこんな状態やねん」と打ち明けられました。そして「この会社は私がつくり、一部上場にまでさせた。つぶすわけにはいかん。再建に当たってくれ」と頼まれましたが、新聞でも“ 泥舟” と書かれた会社。「そんな力はありません」とお断りしたら、ものすごい剣幕で怒られました。石橋オーナーに本気で怒られたのはそれ1 回きりです。
若松 大和団地の社長に就任し、現場に「やる気」をみなぎらせて、2 年目で黒字化、7 年後には復配を達成し、見事に再建されました。
樋口 石橋オーナーの言葉に「勘は先で、理論は後」があります。現場を踏んできた人間の勘を重視するという、現場主義者の石橋オーナーらしい考えです。私もそれに忠実に従いました。当時のスローガンは「サナギからスタート」。SANAGIのS(スピーディに)、A(明るく)、N(逃げず)、A(あきらめず)、G(ごまかさず)、I(言い訳せず)をキーワードに、徹底した現場主義を貫くことで、なんとか最終テストに合格することができました(笑)。