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100年経営対談
100年経営対談
成長戦略を実践している経営者、経営理論を展開している有識者など、各界注目の方々とTCG社長・若松が、「100年経営」をテーマに語りつくす対談シリーズです。
100年経営対談 2019.04.26

業界の常識を大転換した角膜コンタクトレンズのサブスクリプション戦略 メニコン 代表執行役社長 田中 英成氏

 

日本初の角膜コンタクトレンズを開発したメニコンは、2001年にサブスクリプション(定額制)の先駆けとなる「メルスプラン」の導入で、圧倒的国内シェアナンバーワンの地位を築いている。売上高766 億円、従業員3083名(いずれも連結)の東証1 部企業として市場をけん引し続けるメニコンの強さの秘密を、代表執行役社長の田中英成氏に伺った。

 

角膜コンタクトレンズを日本で初めて開発

 

若松 メニコンは日本で初めて角膜コンタクトレンズを開発したパイオニア企業であり、現在もトップ企業として国内市場をけん引されています。日本初の発明がどのような経緯で生み出されたのか、大変興味があります。

 

田中 愛知県葉栗郡木曽川町(現・一宮市)に生まれた創業者である父・田中恭一(現会長)は、国民学校高等科の時に学徒動員として特殊潜航艇のスクリューを製造する軍需工場で働くようになりました。当時は12歳か13歳の子どもですから、仕事は道具の出し入れや後片付けといったお手伝いが中心でしたが、偶然、技術員の付き人に任命された父は技術員から旋盤など工作機械の使用方法を教えてもらいました。もともと手先が器用でしたから上達が早く、工場では工作機械を使った作業もしていたようです。

 

終戦後は竹彫工芸家である祖父の勧めで知り合いの「玉水屋眼鏡舗」に就職。父は接客業は不得手でしたが、自分でデザインした眼鏡を製作したところ、それが評判となってナンバーワンセールスになったそうです。その後、技術が認められて、弱冠17 歳で技術主任になりました。

 

若松 手先が器用で良いモノを作りたいという探求心がある。ものづくりに向いていらっしゃったのですね。ただ、当時の日本では眼鏡店であってもコンタクトレンズを目にする機会はなかったのではないでしょうか?

 

田中 文献などからコンタクトレンズの存在は知っていたようです。転機となったのは、在日米軍の病院から眼鏡を処方する専属ライセンスが父に与えられたこと。腕の良い職人がいるとの評判が伝わり、白羽の矢が立ったわけです。当時、名古屋には在日米軍とその家族が暮らしており、たくさんの外国人が玉水屋を訪れるようになりました。ある日、コンタクトレンズをお持ちのお客さまが来店され、父は「見せてほしい」とお願いしたものの、ついに実物を見ることはできなかったようです。それが、かえって父の開発魂に火を付けました。「アメリカ人に作れて、日本人に作れないはずはない」と奮起し、3 カ月で独自のコンタクトレンズ開発を成功させました。

 

 

運を味方に付けることが成功の秘訣

 

若松 見たことがないモノを作る苦労は計り知れません。眼鏡の知識をお持ちだったとはいえ、わずか3カ月で開発できたのは驚きですね。

 

田中 まずは目のスケッチを繰り返し、眼鏡のフレームに使われていた風防ガラスに目を付けて直径約11㎜のレンズを削り出しました。実は、当時は白目ごと覆う直径約20㎜のコンタクトレンズが研究されていましたが、実物を見たことがなかった父は黒目の上に乗せるレンズを製作。実際に、自分の黒目に乗せて確かめました。その後も研究を続け、父は「日本コンタクトレンズ研究所」を創設。コンタクトレンズの製造販売をスタートしました。

 

若松 技術者、眼鏡店の販売員、開発者。複数の視点を持っていたことが、画期的な商品開発につながったのでしょう。人生は遺伝、偶然、環境、意志の産物といいますが、ご家族、ご子息の立場から見て成功の要因はどこにあったとお考えでしょうか。

 

田中 父の強い好奇心と負けず嫌いの性格、もう一つ加えるなら運ですね。学徒動員で優秀な技術員の付き人になったことや眼鏡店に入社したこと、英語を話せなかった父が米軍の病院の試験にパスしたこと。どれをとっても運が良かったとしか言えません。さらに、専門的な知識がなかったことも成功要因だったのかもしれません。真っ白な状態だったから、黒目だけを覆うデザインが生まれたのではないでしょうか。この時の基本設計は、今のハードレンズとほとんど変わりません。

 

サブスクリプションの先駆け「メルスプラン」という戦略

 

若松 田中社長ご自身は眼科医でもあるとお聞きしています。眼科医としての視点が「患者は顧客」という思考、「顧客のために」という経営哲学につながっているのではないでしょうか。入社されたのはいつ頃ですか?

 

田中 医学部を卒業した1987 年に顧問という形で入社しましたが、実際は研修医を終了した後は5 年ほど眼科医として病院に勤務していました。眼科専門医の試験合格を機にメニコン直営店の併設眼科を開業。医院長に就任すると同時に、メニコンの取締役にも就任しましたが、バブル崩壊後で価格破壊の波が押し寄せており、非常に苦労しました。販売店では70%引き、80%引きが常態化しており、定価販売を基本とする直営店にお客さまはほとんど来ません。私自身、借金をして開業していましたし、会社の業績も悪化していました。

 

若松 当時はどの業界もひどいデフレに見舞われ、倒産する企業が相次いでいました。デフレ環境にどのように対応されたのでしょうか?

 

田中 ある日、「コンタクトレンズの調子が悪い」と1 人の患者さんが来院されました。他店でメニコンのレンズをご購入されたと聞いて確認すると、レンズは真っ白に汚れていて眼球に傷がついていました。レンズを洗浄してみると、実はメニコンのものではなく他社製品だったのですが、「メニコンと同じ製品」と説明されてご購入されたとのこと。そのように販売されてはメニコンのブランドに傷がつきますし、何よりお客さまの目の安全を確保できません。さらに、そのような状況が続けばコンタクトレンズに対する信頼が失われます。大きな危機感の中、考え抜いて思いついたのが定額制の「メルスプラン」でした。

 

若松 メルスプランは、一定料金を毎月払うことで定期的に新品のコンタクトレンズを受け取れるサービス。レンズが破損した場合は追加料金を払わずに新品に交換できたり、視力の変化や好みに合わせてレンズを交換できたりするのでエンドユーザーは安心です。加えて、販売店のメリットが大きいことも成長要因でしょう。実は、10 年ほど前に併設眼科を持つある眼鏡店のコンサルティングをしていた際、財務状況を見て目を疑いました。利益のほとんどがメルスプランの手数料だったからです。どのような仕組みなのか興味が湧いて詳しく研究しましたが、本当に良くできています。

 

田中 そのように言っていただけると光栄です。当時は、常に「どうしたらお客さまの目を守れるか」「会社を守れるか」「コンタクトレンズ業界を守れるか」ばかりを考えていましたが、ある時、「お金の流れを逆にしよう」と突然ひらめきました。それまでは、商品はメーカー、販売店、エンドユーザーへと川上から川下に、お金は川下から川上に流れるというのが当たり前でしたが、メニコンがエンドユーザーと直接契約を結べば安売りがなくなり利益が安定すると考えました。販売店にとっても、メルスプランがお客さまを集めてくれるだけでなく、人数に応じて決まった手数料が入るメリットがあります。さらに、安売りをしないので店の利益率が上がり、販売員の給与が上がってモチベーションが高くなるとサービスは向上します。これはエンドユーザーにとってもメリットですし、会員数の増加に結び付けば利益が増えて品質向上や商品開発へ向ける投資も増え、より良い商品をエンドユーザーへ届けられるようになります。つまり、メルスプランはメニコンと販売店とエンドユーザーの3 者がWin-Win-Win の関係で結ばれる、三方よしのビジネスモデルなのです

 

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名古屋市内の老舗眼鏡店「玉水屋」時代の、メニコン創業者田中恭一氏と米軍将校夫人。 「コンタクトレンズを持っている」と言う夫人が現物を見せてくれることはなかった